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「心の翻訳」
(サンプル原稿)

1章 翻訳の前提

 

1. 言語・思考・認識

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言語・思考・認識の関係を氷山に例えてみたい。この氷山が表わしているのは人間の心である。その大部分は海の下に沈んでいる。海の上に見えているのは、わずか一部分だけに過ぎない。それが言語である。そして海の下に見えない大部分が思考と認識である。

これまでの翻訳では、海の下にある思考と認識のことをあまり考えてこなかった。見える部分の言語だけを移し替えようとしてきた。しかし「心の翻訳」モデルでは、翻訳すべき対象は氷山のすべて、つまり人間の心の働き全体だと考える。したがって翻訳者は海の上に見える部分だけでなく、海に下に沈んでいる部分も訳さなければならない。言語、思考、認識という3つの領域を理解して、言葉と言葉だけではなく、心と心をつながなければならないのである。

言葉のレンズをとおして世界を認識する

私たちはこの現実世界をふたつの方法で認識している。ひとつは「いきもの」としての認識である。その認識のもとでは、固体は固体として、流体は流体として認識される。この認識のあり方は人間も犬も猫も同じであり、生きるうえで非常に重要な認識方法である。

しかし「いきもの」としての認識では、固体を固体だと認識はできても、それを「椅子」とは認識できない。流体を流体と認識できても、それを「池」とは認識できない。こうした認識ができるのは、人間が「言葉」を持っているからである。犬や猫や鳥はそういう意味での言葉は持っていない。彼らの世界には「椅子」も「池」も存在しない。言葉があるからこそ、椅子も池も春も愛も、そこに存在するのである。

しかし、ここに問題が生じる。言葉によって「椅子」や「池」を認識しているということは、言葉が違えば世界認識が変わるということである。つまり、英語を母語としている人の世界に対する認識と、日本語を母語にしている人とでは、世界に対する認識が同じでないということになる。

ここに自然の世界があるとしよう。この世界を、人間はまず犬や猫や鳥と同じ方法で認識する。このように認識された世界のことを「ナマの世界」と呼ぶことにする。つぎに、人間は「ナマの世界」を言葉という「レンズ」をとおして認識する。すると、そこに「椅子」や「池」や「春」や「愛」が生まれてくる。この「椅子」や「池」や「春」や「愛」を含んだ世界が、私たちの生きる人間の世界である。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの「言葉のレンズ」には、さまざまな種類がある。英語というレンズをとおすと、世界は英語の世界になる。日本語というレンズをとおすと、世界は日本語の世界になる。このふたつの世界は大きく異なっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん同じ人間どうしであるから、根本的にすべてが違うわけではない。しかしその違いは一般に考えられているよりもはるかに大きく、特に英語と日本語の世界認識の違いは非常に大きいのである。

​(続く)