「心の日本語文法」
(サンプル原稿)

はじめに

私たち日本語人にとって「日本語文法」は縁遠い存在である。理由は簡単であり、日本語文法など知らなくとも私たちは何も困らないからである。私たちのふだんの生活で日本語文法を意識する場面など皆無である。読み書きの際にも辞書のお世話にはなっても文法のお世話にはならない。そんなものを知らなくとも私たちは日本語の文章を読めて書けるからである。

では私たちは日本語文法を知らなくてもよいのかといえば、そうではない。日本語がどのような言語なのかを知ることは、日本語人が日本語人として自分自身の姿を知ることにほかならない。そして自分自身を正しく知らないかぎり、他者を正しく知ることはできないのである。

この「心の日本語文法」では、現代日本語を和漢洋の「三脚文明」の反映として捉え、そのなかで私たちの心がどのように働いているのか、それが日本語にどのように反映されているのか、という観点からの考察をおこなっている。従来の文法の枠には収まりきれないものであるが、特に日本語の世界と英語の世界を自由に往来するためには、必ず知っておかなければならないことだと私は考えている。本稿をつうじて、皆さんが現代日本語に対する従来の見方を抜け出して新しい見方を習得していただけることを願っている。

 

成瀬由紀雄

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1. 日本語と文法

 

1. 学校国文法とは

私たちは中学や高校の国語の時間に日本語の文法を教わった。一般に「学校国文法」と呼ばれるものである。多くの読者はもう覚えていないかも知れない。なにしろ退屈なものだったから。

この学校国文法に対して、現在少なくない数の言語研究者のなかから「役に立たない」「従来の学校国文法はまちがいである」などといった主張がなされている。たとえば、日本語文法の第一人者のひとりである北原保雄は、その著書のなかで次のように述べている。

 

明治以降の文法研究の流れは、大きくいうと、大槻文法から橋本進吉に繋がる線が1つある。これは非常に形式的な、言語形式を重視する文法である。それに対して、言語の内容を見るというのが、松下大三郎、山田孝雄、それから時枝誠記の線である。

学校文法は橋本文法を基本とするが、それは橋本文法が単純でわかりやすいからだと思う。しかし、「~が」も「~は」も、さらに「~さえ」も「~こそ」でも、動作主体を表すものはすべて主語だという。これでは、何も見えてこない。文節についても、日本人なら文法を知らない者でも「ね」を入れて切ることができると言うが、それは、日本人であれば、日本語の意味がわかるからである。決して形式の方に繋がる必然性があるのではない。意味を無視して文法は語れないのである。

(『表現文法の方法』北原保雄、大修館書店、p.65)

 

学校で公式に教えられていることに対して数多くの専門家が異を唱える――まさしく異常な出来事だといわざるを得ない。

 

じつは、明治以来日本の学校で教えられてきた学校国文法とは、英文法の影響をきわめて強く受けた、非常に乱暴にいってしまえば英文法の翻訳版とでもいえるものであった[1]。

明治30年代の中盤(西暦1900年前後)、大槻文彦という言語学者が中心となって、わが国の学校国文法は最初の完成をみた。イギリスでの学校文法にあたるMurray文法の完成が1795年であるから、イギリスからはおよそ100年の遅れである。ちなみに大槻文彦は、あの蘭学の入門書『蘭学階梯』を著した蘭学者、大槻玄沢の孫である。

英文法の歴史

日本語の文法を考えてみる前に、まず英文法の歴史について少し眺めてみることにしよう。すると、いま私たちが学校で習っている英文法のもととなった文法が、じつはイギリス人の英語に対する劣等感を克服するためにつくられたものであることがわかってくる。

15、16世紀ぐらいまで、英語には「文法」と呼べるものはなかった。皆さんのなかには、「文法」というものは大昔から自然に存在するもののように考えている方もいるかも知れないが、そんなことはない。英語にしても日本語にしても、人々はずいぶんと昔からそれぞれの言語を使っているが、みずからの言語を体系化しよう(これが文法である)と考えはじめたのは、それほど古い時代のことではない。ヨーロッパでは宗教改革の頃から、日本では江戸時代後期になってからのことである。

イギリスで英語の文法をつくろうという機運が高まったのは、16世紀の終わり頃のことである。当時のイギリス人は、自国語たる英語に対して大きな劣等感を抱いており、その劣等感を克服するために、当時まだ貧弱であった語彙を増やし、そして独自の文法を確立しようとしたのである。そしてその際のお手本となったのは、もちろん当時のヨーロッパ知識人の共通語たるラテン語の文法であった[2]。

その後、さまざまな試行錯誤ののち、英文法なるものがようやく完成期を迎えたのは、1795年に発刊されたLindley MurrayのEnglish Grammarに至ってのことだとされている。これは日本でいえば寛政年間、あの「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が江戸の町で大活躍していた頃にあたる。それから約200年の長きにわたり、イギリスやアメリカの人々は、Murrayが完成させたこの英文法を使って英語の体系を理解し、あるいは学習してきた。

Murray英文法は、当時のイギリス国民がフランス語に対して抱いていた劣等感を克服するためにつくられたものであった。イギリスでは、1066年のノルマンコンクェストから数百年にわたって支配階級がフランス語を用いており、英語は下層階級が使う下等言語だという認識が一般的であった。その後イギリスの世界制覇とともに英語は世界を席巻する言語となっていくのであるが、それ以前の英語はヨーロッパの片田舎の言語にすぎず、そのことに対して当時のイギリス人は大いに劣等感を持っていたのである。そうした劣等感が打ち払われて逆に傲慢な優越感へと変わっていくのは、シェイクスピアの出現にはじまって、最終的にはMurrayによる英文法が完成に至ってからのことである。Murray英文法の完成によってはじめて、英語という言語はフランス語にも匹敵する高級文化言語としての地位を手にすることができたのである。

国文法の歴史

日本語文法研究の萌芽

ここからが日本語文法の歴史の話である。「文法」という明確なかたちではないにしても、日本人が日本語のことを外国語(漢文)とは異なる独自の言語であると無意識なりにも自覚し始めた時期については、おそらく『万葉集』の時代にまでさかのぼることができるだろう。

たとえば、万葉集の編者である大伴家持は、和歌のなかでの「助詞」の有無について言及をしている[3]。このように助詞の存在を意識せざるを得なかったのは、大伴家持のような歌詠み、そして漢文を読み取る必要があった僧侶や学者たちにとって、助詞の性質がわからなければ和歌を詠んだり漢文を日本語で読み取ったりすることが難しかったからである。ここから、助詞こそが日本語という言葉のかなめの部分であることがわかる。

漢文には、日本語の助詞にあたるものは基本的には存在しない。そのため、僧侶や学者たちは中国から輸入された経典などを読み取る際、それぞれの漢字のスミや真ん中に赤点を打って、それを助詞の読み取り記号とした。「ヲコト点」と呼ばれており、この「ヲコト点」の一般的な呼び名が「てにをは」「てには」である。

日本語を「てにをは」とそれ以外の語(「詞」)とを2分して説明した最初の本は、『手爾葉大概抄』という本だとされている。同書の成立年ははっきりしないが、室町初期以前であることは確かなようである。このように江戸時代以前にも、日本語に関するさまざまな研究があったようであるが、それらの考察は確立した「文法モデル」と呼ぶにはまだまだ不十分なものであった。

本格的な日本語文法研究のはじまり

日本語文法の構築を自覚的に模索し、ある程度の体系化を果たした最初の人物は、イエズス会宣教師として16世紀末に日本にやってきたジョアン・ロドリゲスだとされている。ロドリゲスは、1604年から1608年にかけて『日本語文典』という文法書を発刊した。これが史上初の日本語文法書だとされている。優れた通詞であったロドリゲスは、西欧言語の文法モデルをもとにして日本語の構造を分析したのである。

日本語人としての最初の文法学者と呼ぶべき人々は、江戸時代後期の富士谷成章、本居宣長、本居春庭、鈴木朖だと考えることができる。彼らは、古来の日本語文献をよく吟味することを通じて、そのなかに潜んでいる体系と法則を導き出そうとした人々である。

文化人類学の学問用語で、ある文化を探求する際にその文化に属する人間がおこなう探求のありかたを「イーミック」といい、その文化には属さない人間がおこなう探求のありかたを「エティック」という。この言い方を借りるならば、本居宣長、春庭、鈴木は「イーミック」な立場から日本語を探求し、ロドリゲスは「エティック」な立場から日本語を探求したといえるだろう。

ただし、これらの先駆的研究は、その後の大槻文彦、橋本進吉を経由した政府公認の学校国文法には大きな影響を及ぼさなかった。明治政府以降の日本政府は、日本や東洋の文明を西欧文明に比べて劣等なものとみなしてそれを捨て去り、その代わりに西欧文明を導入しようとしたからである(これが「文明開化」の本質である)。したがって、大槻や橋本が江戸期の学問を参考にしなかったのは、ある意味では当然のことといえる。

大槻文法(学校国文法)の完成

さきに英文法はイギリス国民の英語に対する劣等感を克服するためにつくられたものだと述べた。そうしたメンタリティは日本語の文法の場合も同じであった。すなわち、現在日本で広く教えられている学校国文法の場合も、欧米諸国に対する言語的な劣等感を克服するために、当時の国家的な使命のもとにつくりあげられたものである。

なにしろ明治という時代は、初代文部大臣の森有礼が「日本語などという劣等な言語は捨て去って、思い切って英語を我々の国語として採用しよう」と真剣に目論んだ時代であった。郵便制度の生みの親である前島密は「文明の進歩を阻害する」漢字を廃止する運動の主導者であった。大槻文彦もこうした当時の「開明的」な人々のひとりであったのである。明治維新つまり西欧文明の受容が当時の日本と日本人にいかに大きなショックを与えていたかが、ここからもよくわかる[4]。

こうした時代背景をもとに新たに生み出された文法が、大槻文法である。大槻玄沢の孫である大槻文彦は、文部省からの委託を受けて、日本初の国語辞典『言海』をつくりあげた。その巻頭部分としてつくられた「語法指南」が1897年(明治30年)に『広日本文典』として独立して出版された。これが近代日本初の「公的」日本語文法書である。

大槻には、もともと文法書を書く意図も意志もなかった。あくまでも辞書を完成させることが大槻の大目的だった。しかし西欧語の辞書には「品詞」という項目があった。文部省と大槻の目標は西欧の辞書に匹敵する日本語の辞書をつくることであったから、西欧語の辞書にあるものは日本語の辞書にもなければならない。それが「文明国」としての日本の存在証明であると彼らは考えた。

そこで大槻はウェブスターの辞書の巻頭に載っている英文法と従来の漢文法とを合体させて『言海』の巻頭の「語法指南」をつくりだした。こうして英文法を基盤とする日本語の文法、つまり「学校国文法」が誕生したのである。

大槻と文部省がつくった学校国文法はその後、国民教育の普及とともに急速にその影響力を増していった。大槻とほぼ同時期に松下大三郎が日本語人による日本語のための最初の文法書『日本俗語文典』(1901年、明治34年)をつくっているが、学問的影響力はどうであれ、その社会的影響力は文部省をバックとする大槻の『広日本文典』とは比べものにはならないほどに小さなものであった。

英文法との誕生への道筋の違い

このように英文法と学校国文法とは自国語に対する劣等感を克服するためにつくられたという点においては同様なのであるが、ただ、両者には完成に行き着くまでの道筋に大きな違いがあった。イギリスにおいては母語すなわち英語の文法を確立しようとする努力が、すでに1500年代中盤からはじまっていた。そしてその後も英文法の確立のためにさまざまな試みがなされていた。Murray文法とは、そうした膨大な営みのうえに花開いた一輪の精華だったといえるだろう。

ところが、わが国の明治期の学校国文法はMurray文法のように数百年の時の練磨を経たのちに完成したというものではない。すでに述べたように日本にも江戸時代には日本語の文法を確立しようとする確かな試みがあったのだが、残念なことにその成果は学校国文法の確立にほとんど活かされなかった。当時の学校国文法とは、小国日本が欧米列強に一刻でもはやく追いつくために英文法を参考にして急ごしらえでつくりあげたものであった。そのため、当然ながら本家本元である英文法の影響を強く受けることとなったのである。

こうして日本語の実態を反映していない文法概念が学校国文法のなかに数多く盛り込まれることになった。ちょうど文明開化のさなかに日本社会の実態を反映していないさまざまな概念が政治や経済や産業のなかにつぎつぎと盛り込まれていったのと同じように。そしてこのことが現在にまでいたる日本語文法の混乱につながることとなったのである。

大槻文法以外の「国文法」研究

大槻文彦による文明国日本としての学校国文法の完成と並行するかのように、それ以外にも数多くの日本語文法研究がおこなわれ、そして大きな成果を生み出していった。そのなかでも突出して大きな成果を生み出したのは、最後の国学者と称される山田孝雄の国文法研究であった。

山田の国文法研究の最大の特徴は、日本語を日本人としての「思想の表出」の最重要手段として捉え、そこに含まれる思想と言語表現との関係性を「文法」であるとしたことである。この山田の姿勢は、大槻のような「文明開化」論者とは本質的に異なるものであった。

山田は、大槻と同様に西欧で発展した文法学を参考としながらも、基本的には江戸時代に国学者を中心となって発展してきた日本語研究の成果を重視した。その考え方が、文における「陳述」の存在という考え方に結びつき、その後、時枝誠記、渡辺実へと引き継がれていった。

一方で、大槻文彦のように西欧文法の考え方をベースに漢文化的要素や和文化的要素を加味していく「和洋折衷」的な研究方法は、明治から現在にまで続く日本の学問のあり方としての「正統」であった。その後も、この方法論による日本語文法の研究は連綿として続いている。

日本語教授のための日本語文法の発展

1970年代ごろになると、明治以降の伝統の流れをくむ学校国文法が持つ矛盾点を指摘する声が徐々に高まってきた。その中心のひとつとなったのは、日本語ノンネイティブ、すなわちいわゆる「外人」に日本語を教える人々つまり日本語教師たちであった。日本語教師にとっては、従来の国文法を使っていては日本語ノンネイティブへの日本語教育がうまくいかないという差し迫った問題があったからである。

こうした状況から、新しいかたちの日本語の文法が「官」(国家)とは離れたところで構築されていくようになった。このようにして構築された文法体系は、従来の官制の文法が「学校国文法」と呼ばれるのに対して、ただ「日本語文法」と呼ばれている[5]。

日本語の文法の現在

現在、日本語の文法は一般社会のなかでどのようにとり扱われているのだろうか。じつは学校国文法と日本語文法とが学校教育の現場と日本語教育の現場とでうまく棲み分けているという状態である。つまり小中学校などではいまもなお学校国文法が教えられている。皆さんも学校でこの国文法の体系を教わってきたはずである。それに対して日本語ノンネイティブ向けの日本語教育の現場ではおもに日本語文法が用いられている。

こうして日本の近代化の礎となった国文法と、日本語ノンネイティブへの言語教育的なニーズから生まれた日本語文法という2つの日本語文法が並存するという、少し不可思議な事態が生じ、それがいまもなお続いている。

埋もれてしまった山田・時枝・渡辺文法

ところで、こうした歴史の流れは日本文法の研究にひとつの深刻な問題を生み出した。すでに紹介したように国文法の研究では、大槻・橋本をベースとする「客観重視・欧米思想」の学派と、山田・時枝・渡辺をベースとする「主観重視・日本思想」の学派とが、いわば二大潮流として明治以降に連綿として研究されてきた。だが、そのうちの学校国文法ではない文法体系、すなわち山田・時枝・渡辺文法という日本人の思想の表出をベースとする文法に対して、現在の日本社会ではほとんど注目が集まらなくなってしまった[6]。

こうした状況は「心の翻訳」モデルにとって非常に深刻な事態だといえる。「心の翻訳」モデルは「言葉のあり方」ではなく「心の働き」を翻訳の対象とするものである。ところが学校国文法(橋本文法)では「心の働き」の分析は非科学的との考えから極力排除している。また日本語ノンネイティブ向け日本語教育文法とはあくまでも日本語ノンネイティブのニーズをもとにしたものであるから、「心の翻訳」モデルのように日本語ネイティブのための文法とは本質的に異なるところがある。どちらも「心の翻訳」モデルの拠り所としては使いにくいのである。

それに対して、山田・時枝・渡辺文法では言語主体(ここでは日本語人)の「心の働き」を分析しようとするわけであるから、この日本語文法研究の流れこそが「心の翻訳」モデルにとってはまさに最適の文法モデル流派といえる。ところが、その最適の文法モデル流派が、現在の日本社会ではもっとも認知されていないわけである。「心の翻訳」モデルの開発者である私(成瀬)としては、まことに頭の痛い話なのである。

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[1] そのほかに漢文の文法からも影響を受けている。

[2] ヨーロッパ文化の父であるラテン語については古くから文法が存在する。ラテン語は別格なのである。

[3] 『日本語はいかにしてつくられたか?』(小池清治、筑摩書房、p.188-192)より。以下も同じ。

[4] 西欧文明の受容の問題はもちろん当時の日本だけの問題ではない。現在の日本のみならず、現在のイスラム問題なども大きく捉えれば、これと同じ根を持っていることがわかる。

[5] こうした捉え方が事態をきわめて単純化したものであることは指摘しておかなければならない。実際には国文法と日本語文法のあいだで重なり合う部分も大きい。しかし一方で主語や活用といったきわめて重要な部分での食い違いもみられる。こうした違いはやはり見逃すことはできない。

[6] 山田文法/時枝文法/渡辺文法の内容の一部は日本語ノンネイティブ向けの日本語教育文法にも組み入れられてはいるのだが、残念なことに日本語ノンネイティブ向け日本語教育文法もその思考のベースとなっているのは西欧文法理論であるから、山田孝雄、時枝誠記、渡辺実とつづく「日本人思想の文法」とでも呼ぶべき文法観の本質を明確に示すことはできていない。

​(続く)

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