なる爺:

なる爺じゃ! 「心の英作文」では、ワシのとてつもなく素晴らしい解説のおかげで、諸君はまたたくまに英作文のコツをエー、サクサクとマスターできたことであろう。今回はそれに続いて、日本語作文のツボについて、またもや素晴らしい解説をおこなうことにしよう。どうじゃ、涙が出るほどに嬉しいであろう。感涙にむせびたいのであれば、遠慮はいらんぞ。

あさみ:

あさみでーす。みなさん、今回もよろしくお願いします。いつものように、なる爺には勝手にいわせておけばいいから、どうか気にしてないでくださいね。
それにしても「はじめに」での成瀬先生のコメント、学校国文法は日本語文法モデルとして失格だなんて、あいかわらずカゲキだよね。あんなこといって、文部科学省が怒らないのかな。

なる爺:

怒ったって、べつにいいではないか。そもそも文科省がきちんとした日本語教育をしないのが問題なのである。多くの専門家から批判が出ている学校国文法だけを正統な日本語文法として国民に押し付けるなど、もってのほかじゃ。こんな馬鹿げたことは、もうやめなければならん。そのためには誰かが「王様は裸だ!」と叫ぶことが必要なのじゃが、それを成瀬先生がやったというだけのことである。べつにおかしなことではない。

あさみ:

なる爺も、あいかわらずカゲキだね。でも、たしかに学校で日本語の書き方って、まともに習ったことがないなあ。

なる爺:

そうじゃろう。あさみだけではない。日本人のほとんどが、日本語の合理的な書き方をきっちりとは習っておらん。だから日本人の作文力も翻訳力も伸びないのである。こんなことでは日本語と日本人の将来は真っ暗じゃ! ゆえに日本語の作文教育を、どげんかせんといかん!

あさみ:

あれ? それって……

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日本語作文での心得

日本語作文の学習をするうえでの私からのアドバイスをいくつか述べておく。

1. おいしい清水のような文を目指す

名文をつくることは酒造りに似ている。最高級のワインや日本酒が私たちを陶酔に導くように名文もまた、私たちの精神を陶酔へと導くものである。

そういう意味で名文づくりも最高級の酒造りと同様に、非常に価値のある営みである。だが、そうした難業は本物の杜氏や文章の杜氏であるプロの作家にまかしておくべきである。素人がむやみに手を出すと、つくりだされた酒(文章)はとても飲めたものではない。そんなものを人に飲ませる(読ませる)ことは罪悪といってよい。

私たちが目指すべきは、最高級のワインや日本酒のような文章を書くことではない。清流の水や清らかな湧き水のような文章を書くことである。水道水のようにカルキ臭くはなく、いつどこで誰が飲んでもおいしい、そんな水のような文章である。

2. わかりやすい文章を書く

難しい内容は難しい文章でしか表現できないと多くの人が思い込んでいる。日本語人だけでなく英語人も同じである。そんなことはない。たとえ難しい内容であっても、わかりやすく表現することは可能である。ただし注意しなければならないのは、わかりやすい文章と幼稚な文章とは似て非なるものだということである。高度な内容をわかりやすく書くことは、難しいことを難しく書くこともはるかに難しい。

3. まとまりがあり、流れのよい文章を書く

文章づくりはチームスポーツに似ている。たとえ一人一人のプレーヤー(文)が優秀でも、チームとしてのまとまりがなければ試合には勝てない(よい文章にはならない)。同様に、一つ一つのプレー(文)がどんなに良くても、それが流れのなかでうまく連携しなければやはり試合には勝てない(よい文章にはならない)。

4. 何度でも考え直し、何度でも書き直す

文章づくりで最も重要なことは、何度でも考え直し、何度でも書き直すことである。無駄はないか、まとまりはあるか、流れはよいか、伝えたいことは明確に伝わっているか――さまざまな角度からのさまざまなチェックを繰り返し、捨てるべき考えを捨てて、加えるべき考えを加え、変えるべき表現を変えていく。その行為を、その日のうちに、1日後に、1週間後に、1カ月後に、1年後に、何度でも何度でも繰り返すことである。そうすれば、日本語であれ、英語であれ、その文章は必ずより良いものになっていく。

​(続く)

「心の日本語作文」
(サンプル原稿)

はじめに

まず、次の文をみていただきたい。

「明日我々は1つの会議を持つ。」

うえの日本語文はWe have a meeting tomorrow.を直訳したものであるが、明らかに奇妙である。意味はわかるにしても、まともな日本語とはとてもいえない。では、なぜこの表現は日本語文として奇妙なのだろうか(もとになっている英文は奇妙ではないのに)。そして、奇妙でない表現にするには、どのようにすればよいのだろうか。

続いて、次の文をみていただきたい。

「ユリエはハナコと一緒に東京ディズニーランドに遊びにいったサクラを迎えにいったよ。」

この文では、ハナコが遊園地にいったのか、それとも迎えにいったのかが曖昧である。では、なぜこの日本語文は曖昧なのだろうか。その曖昧さを解消する方法としては、どのようなものがあるのだろうか。

こうした疑問に対して学校の国語教育はなにも答えてくれない。その理由として学校での国語授業の大半が文学鑑賞とテキスト解釈である点を指摘する声もあるが、それは的外れである。理由はもっと単純なのだ。現在学校で教えている学校国文法モデルにはこれらの疑問に答えられるだけの能力がないのである。

「心の英作文」で説明したように文法モデルにはさまざまな種類がある。日本語文法にもさまざまなモデルがあり、学校で教えられている国文法は、そうした数ある日本語文法モデルのうちのひとつである。

問題は、上に挙げたような実践的な作文課題に対して学校国文法は役に立たないということである。間違わないでほしいのだが学校国文法モデルが学術的に正しいか正しくないかが論点なのではない。作文において役に立つか役に立たないかが論点なのであり、この点において学校国文法は日本語文法モデルとして失格である。

ところが学校の国語の授業ではその学校国文法だけを正規の日本語文法として教えており、その他の日本語文法については何も触れない。日本語作文には役に立たない文法モデルだけしか教えないのであるから、当然ながらうえに挙げたような疑問に対して学校の国語教育は何も答えてくれない。いや、答えられないのである。

とても信じられない話だと思っている人もいるかもしれない。だがこれは事実である。なお学校国文法がどのようにして生まれたのか、学校国文法以外にどのような日本語文法モデルがあるのかについては本稿の姉妹版である「心の日本語文法」に詳しく述べている。ご興味のある方はご参照いただきたい。

この「心の日本語作文」では、上に挙げたような日本語作文での実践的な疑問に答えつつ、その具体的解決方法を提示していく。目標は、ここで学ぶことによって、わかりやすく価値の高い日本語文がつくれるようになることである。

成瀬由紀雄

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