英語教育論議の基礎知識(1)

3つの英語――ENL, ESL, EIL

 

ENL, ESL, EIL

英語が現在の世界の第一の国際語であることは間違いない。では、実際の使用状況はどうなのだろうか。

国際英語の研究に関する著名な書のひとつであるTeaching English as an International Language (Sandra Lee Mckay, Oxford University Press)では、世界の英語使用国を、(1)英語ネイティブ諸国(Inner Circle)、(2)英米の元植民地国(Outer Circle)、(3)それ以外の諸国(Expanding Circle)の3つの領域に分けている。Inner Circleで使われる英語が「母語としての英語」(English as a Native Language, ENL)、Outer Circleで使われる英語が「第二言語としての英語」(English as a Second Language, ESL)、Expanding Circleで使われる英語が「国際語としての英語」(English as an International Language, EIL)である。

それぞれの「英語」の使用人口(1997年現在)をみてみると、「母語としての英語」で3億2,000万人~3億8,000万人、「第二言語としての英語」で1億5,000万人~3億人、「国際語としての英語」で1億人~10億人とみている。外側へいくほどに精度が落ちるのは、どこまでを英語「使用者」とみなすかの定義づけが難しいからである。たとえば日本は「国際語としての英語」圏に属する一国とみなされているが、では実際にどのくらいの英語「使用者」がいるかとなると、たしかに特定化が難しい。いまこれを読んでいるあなたは、英語「使用者」なのだろうか。いずれにしろ、これらの最大値をすべて合計したとしても、世界の英語使用人口は16~17億人程度である。中国語使用人口と大差はない。


 

EILと文化

Teaching English as an International Languageでは、国際語としての英語(以下「EIL」)を考えるうえで次の2つの点を中心に考察を進めている。(1)EILにおける英語文化と各国文化の位置づけ、(2)EILとしての規範のあり方、である。

まず(1)の国際英語と各国文化との関係性をみてみよう。同書によると、EILはENLつまり英語ネイティブ国の文化から影響を受けない存在であるべきだと、多くの研究者は考えているようである。それと同時に、国際英語はOuter CircleやExpanding Circleの文化からも独立したものにするべきだとも考えている。


これを、日本にあてはめて考えてみよう。もし私たちが英語を「国際英語」として学ぶならば、その学習は英米文化から切り離されなければならない。つまり私たちがジョージやメアリーになる必要はまったくなく、さらにいえば、なってはいけないのである。と同時に、英語に日本文化からの影響を入れてしまうことにも注意しなければならない。

Expanding Circleに属する私たちが英語を学ぶ目的は、英語ネイティブ国の文化を知ることではなく、あるいは、英語を鏡にして日本文化を学ぶことでもない。それはあくまで、自分たちの考えを相手に正しく伝え、相手の考えを正しく理解することにある。英語は人間交流の道具だということである。

 

EILと規範

つぎにEILと規範の関係である。Inner Circleが使う英語はもちろんネイティブ英語であり、それには当然ながら従来からのネイティブ英語の規範が適用される。

では、EILの場合はどうだろうか。やはり、従来からの英語の規範が適用されるべきなのだろうか。それとも、EILとしての新しい規範をつくるべきなのだろうか。新しい規範をつくるとすれば、その規範はどのようなものであるべきなのだろうか。

この点について、1984年のブリティッシュ・カウンシル創立50年記念の会議において、二人の著名学者のあいだできわめて興味深い論争があったとTeaching English as an International Languageは紹介している。二人の学者とはRandolph QuirkとBraj Kachruである。

Randolph Quirkは日本でもきわめて有名なイギリス人の英語学者である。いっぽうBraj Kachruは日本ではあまり名前が知られていないが、やはり世界的に有名なインド人の英語学者である。この二人がEILにはどのような規範が必要かということで丁々発止のやり取りをしたのである。

まずRandolph Quirkの意見であるが、これはきわめてシンプルである。すなわち、いかなる英語であっても、英語であるかぎり共通の規範は必ず必要不可欠だということである。言い換えれば、たとえ国際英語であってもネイティブ英語の規範にしっかり従いなさいということである。

対してBraj Kachruは、次のように反論したという。


 

In my view, the global diffusion of English has taken an interesting turn: the native speakers of this language seem to have lost the exclusive prerogative to control its standardization; in fact, if current statistics are any indication, they have become a minority. This sociolinguistic fact must be accepted and its implicaition recognized. What we need now are new paradigms and perspectives for linguistic and pedagogical research and for understanding the linguistic creativity in multilingual situation across cultures. (Kachru 1985: 30)

(Teaching English as an International Language, p.51)

 


これに続けてKachruは、英語の規範を現在の「ソリッド」なものではなく、ある程度「ルース」なものとしたとしても、英語のIntelligibility(知的能力)は決して落ちることはなく、逆に英語の規範の多様性を認めることで教育的にはよい方向へいくかもしれないと主張したのである。

たしかにKachruがいうように、現在の世界の英語使用者のなかで、英語ネイティブはすでに多数派ではない。それどころか、Kachruがそう主張してから20年以上を経た現在、英語使用者のなかの英語ネイティブの比率は、完全なマイノリティとなってしまっている。そのマイノリティの規範をそのままマジョリティに踏襲しろというのがQuirkの主張なのだが、これはどうみても無理筋である。“the global diffusion of English has taken an interesting turn”というKachruの発言に強い説得力を感じるのは、おそらく私だけではないだろう。

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 英語教育論議の基礎知識(2)

これまでの英語教育

新しい英語学習を考える前に、これまでの日本における英語学習方法のあり方についてみておくことにしよう。

文法・訳読

まず、文法・訳読である。文法・訳読とは、英文の各単語を日本語に置き換え、それを文法規則にあわせてつなぐことで全体の意味を把握していくやり方である。

1980年代になるまで、日本の英語学習方法といえば文法/訳読であった。利点は、なによりも学習が簡便なことである。どんなに難解なテキストであっても、手元に文法書と辞書さえあれば、とにかく「読む」ことができる。明治期以降、日本ではこの方式で西欧文化が学ばれ、そして日本語へと訳されていった。この意味で、文法/訳読は文明開化を支えてきた陰の主役といってもよい。

現場で役に立たない

だが、1970年代になると文法/訳読に対して、世間から厳しい批判が集まるようになった。最大の批判は、文法/訳読が現場で役に立たないということだった。70年代といえば、日本経済の国際化が本格的にはじまり、海外旅行が普及しはじめた頃である。多くの日本人が海外へと出ていった際に、学校の文法/訳読で習った英語がほとんど役に立たなかったのだ。商談も買い物もまともにできないというこの苦い経験が、文法/訳読への批判として火を噴いた。

「現場で役に立たない」という文法/訳読への批判は、正しい。なぜなら、文法/訳読はそもそも現場で役に立たせるためのものではないからである。それは、西欧の書物を「暗号解読」していくためのものであって、それ以上でもそれ以下でもない。文法/訳読を「現場で使う」という発想自体が、最初から無理なのである。

この批判はまた、理論的にみても正しい。たしかに文法/訳読でも意味(の一部)は把握できる(のかも知れない)。だが、そのためには英単語を日本語単語に置き換えて、それからその順番を入れ換えるという「暗号解読」処理を経なければならない。そうした脳内処理をするためにはどうしても一定の時間がかかるために、目の前の外国人との当意即妙の会話には、この方式は使えないのである。

80年代が英語教育の一大転機

文法/訳読に対する厳しい批判の時期がしばらく続いたあと、1980年代になると、日本の英語教育は一大転期を迎えることになった。中学・高校の授業に「コミュニカティブ・アプローチ」が導入されたのである。コミュニカティブ・アプローチについては次節で説明するが、その原則は、「文字よりも音」「形よりも内容」である。つまり「読む、書く」よりも、「聞く、話す」を優先し、「文法的に正しい」よりも「内容が伝わっている」を優先するということである。現在の中学・高校の英語授業は、このアプローチをベースにして行なわれている。文部科学省の学習指導要領が、そう決めているからである。

コミュニカティブ・アプローチとは

コミュニカティブ・アプローチは、ヨーロッパで1960年代に開発がはじまり、1970年代に完成された英語教授法のひとつである。日本で文法/訳読批判が激しくなった1970年代に欧米で最も人気を博していたのが、このコミュニカティブ・アプローチであった。コミュニカティブ・アプローチの目標が「実践的コミュニケーション能力の育成」であることから、まさに「使える英語」を熱望していた当時の日本の世論に応えるかたちで、日本にも導入されたのである。

「英語を使える」ようにはならなかった

コミュニカティブ・アプローチがどのようなものかといえば、1980年以降に中等教育を受けた世代の人であれば、自分が受けた中学・高校の英語授業を思い出せばよい。「ロールプレイング」などを授業でさせられた覚えがあるだろう。あれがコミュニカティブ・アプローチによる英語学習の一手法である。

こうして「使える英語」への切なる期待をこめて大きく舵を切った日本の英語教育だが、その後どうなったかというと、ほとんど誰も英語を「使える」ようにはならなかった。もしそうなっていれば、現在の英会話ビジネスの隆盛はなかったはずである。

さらに問題だったのは、中学・高校の英語教育と大学以降の高等英語教育のあいだに大きなギャップができてしまったことである。すでに述べたとおり、コミュニカティブ・アプローチは「実践的コミュニケーション能力の育成」を目標としており、それ以上でもそれ以下でもない。高度な英文を読んだり書いたり、高度な議論を英語でするということは、そもそもコミュニカティブ・アプローチの目標の埒外にある。コミュニカティブ・アプローチ的にいえばそんなことは「実践的コミュニケーション能力」とは関係がない。

移民のための教授法

コミュニカティブ・アプローチが言語の知的運用を目標としない理由は、その成立過程をみてみるとよくわかる。コミュニカティブ・アプローチは1960年代にヨーロッパではじまり70年代に完成したのだが、当時のヨーロッパ諸国は域外からの移民を積極的に受け入れているところであった。イギリスでは、大戦後の復興期である1950~70年代に、労働力不足解消にむけて旧植民地から大量の移民を積極的に受け入れていた。50年代からアフリカやカリブ海諸国の人々がイギリスに移民し、60~70年代からはパキスタンやバングラデシュなど南アジア諸国からの移民が増えた。フランスでもまた同様の動きが起こった。

こうした社会状況のなか、当時の外国語教授法に対する不信不満が大きく高まっていった。移民に文法重視の伝統的な言語教授法で教えても、実際のコミュニケーション能力の向上にはつながらなかったのである。そしてその反省を踏まえて、言語「分析」ではなく、言語「使用」のための新しい教授法が研究者のあいだで検討されることになった。これがコミュニカティブ・アプローチの発端である。1971年には、ヨーロッパ協議会が新しい言語教授法の開発を目指して専門家チームを結成し、その成果として、コミュニカティブ・アプローチが完成した。

このように、コミュニカティブ・アプローチとは、もともと移民のための外国語教授法である。そして移民にとっては、日常生活をいかに円滑に行なえるかが最も重要な言語課題であることから、コミュニカティブ・アプローチの目標も、当然そこに集約された。これがコミュニカティブアプローチにおける「実践的コミュニケーション能力の育成」の真の意味である。したがって、高度な英文を読んだり書いたり、高度な議論を英語で行なう能力の育成がコミュニカティブ・アプローチで重要な到達課題とはなり得ないのは、当然のことである。

知的訓練の衰退

いっぽう日本では、コミュニカティブ・アプローチを無批判に導入した結果、80年代以降の中学高校での英語授業は、いわば「生活訓練」の場と化した。生徒たちが「ジョージ」や「メアリー」となって英語での生活を「仮想体験」することが、英語授業の中身となったのである。そしてその代償として中学高校の英語授業は、「知的訓練」の場としての役割をほぼすべて放棄した。

大学側が求めるもの

だが、そのいっぽうで大学での英語教育は知的訓練という使命を放棄しなかった。当たり前である。もし放棄したとしたら、それは大学ではない。そして現在でも、大学側が学生に求める英語力とはコミュニカティブ・アプローチのいう「実践的コミュニケーション能力」ではなく、英語の専門書が読めて、英語の論文が書けて、英語で学問的な議論ができる、そうした知的能力なのである。

ただし大学側もまた、従来の文法/訳読に代わる新しい英語学習方法を提示することはできなかった。たしかに文法/訳読がひとつの知的訓練であることは間違いないのだが、そこには大きな欠陥があることもまた明らかである。したがって、本来であれば文法/訳読に代わる新たな英語学習法を大学側が開発すべきだったのだが、残念ながら、日本の大学英語教育関係者はそれを十分にしてこなかったのである。

英語教育の危機

こうして80年代以降の日本の英語教育には、中学高校の英語教育ではコミュニカティブ・アプローチ、大学の英語教育では英文訓読というギャップができあがった。

そして、現実はどうなったかといえば、英語は英会話学校と受験予備校で本格的に学ぶものになったのである。つまり、中学高校で中途半端にしか身につかないコミュニカティブ・イングリッシュについては英会話学校で、そして、学校では教えてくれないくせに大学入試では求められる英文訓読については受験予備校で、というわけである。

こうして現在の日本の英語教育界は、完全に「オモテ」と「ウラ」の世界に分かれてしまった。そして「オモテ」の世界だけではコミュニケーション力と知力のどちらも身につかなくなったのだ。いいすぎではない。これは事実である。

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英語教育論議の基礎知識(3)

読み書き優先か、会話優先か

英語教育論争の論点のひとつに、英語教育では読み書きを優先するのか、それとも会話を優先するのか、というものがある。これはある意味では、正しい論点ではないことは明らかである。なぜなら、読み書きも会話もいずれも大切だからである。野球に例えれば、バッティングが優先か守備が優先かといっているようなものだ。そして、この2つの能力は、本来的には密接に関連しているものである。

読み書きを優先する理由とは

ただ、それでもこの「読み書きか、会話か」という議論はいまも絶えることがない。そしてその多くが、読み書きよりもまず会話を重視すべきだというほうの意見であり、それが現在の英会話ブームへとつながっている。

そこで、ここでは敢えて会話よりも読み書きのほうを重視するべきだという論陣を張り、その論拠を以下に3つ挙げておきたい。

実利性

読み書きのほうが優先すべきその第一の理由は、実利性である。グローバル化が急速に進む現在、英語の高度な読み書き能力は、もはやビジネスや学問の必須条件となった。英文を速く的確に読み、説得力ある英文を書くことできなければ、質の高い仕事はもはやできない時代になりつつある。いっぽう、会話にはそうした重要性はない。時として海外旅行で、あるいはビジネス交渉や学会の発表で英語が必要となるケースもあるのかもしれない。だが、それはあくまで非日常的な事態にすぎない。日常のなかで英会話が必要となる状況など、日本ではまず考えられない。ようするに、英会話よりも英語の読み書きのほうが、私たちの生活にとってはるかに現実的に役に立つということである。

効率性

第二は、効率性である。そもそも会話とは、学習するものではなく現場の実践のなかで慣れていくものである。英語が日常的に用いられている状況に入らないかぎり、会話力を向上させることは基本的に無理である。逆に、そうした状況のなかにいれば、会話力は自然に向上する。いっぽう、読み書きの力は学習を通じてのみ向上するものであり、自己流で読み書きの力を向上させていくことはきわめて効率が悪い。英語を学習するのであれば、読み書きを中心に行ったほうがはるかに効率がよい。

内容の充実

第三は、内容面である。たとえビジネスや学問に関するものであっても、会話の内容は基本的に狭くて浅いものでしかない。ましてや単なる日常会話で深い内容の意見を交換するなど、ほぼ不可能である。いっぽう、読み書きでは深く広い情報や意見を交換することが可能となる。英語の読み書き力を磨いていくことで、これからのグローバル時代に対応できる知性や教養を育てていくことができる。

上に挙げたような、会話よりも読み書きを重視すべきだという論には、いくつもの観点から批判がなされている。

疑問1 読み書き教育は成果を挙げてこなかったのではないか

第一の批判は、日本ではこれまで読み書き重視の英語教育を行ってきたにもかかわらず、十分な成果をあげてこなかったではないかというものである。しかし、この批判はつぎの2点において間違っている。第一に、これまでの日本の英語教育は、本当の意味での読み書き重視の英語教育ではない。「読み」については英文和訳という「暗号解読」にすぎず、「書き」にいたってはじつは何も行ってきていない。ようするにかつての文法解読方式は、あくまで「擬似」読み書き重視教育であったにすぎないのである。第二に、1980年代以降にはそうした「擬似」読み書き教育さえも行わなくなり、会話重視へと日本の英語教育は大転換をしてしまった。しかしその結果日本人の英語力が伸びたかというと、そんなことはない。つまり「擬似」読み書き重視であろうと会話重視であろうと、いずれにおいても、日本の英語教育は十分な成果を挙げてきていないのである。

疑問2 読み書き教育ではコミュニケーション力が育たないのでは

第二の批判は、読み書き重視の英語教育をすると、知性や知識の習得ばかりが強調され、人間的なコミュニケーションの教育が欠けてしまうというものである。しかし読み書き重視の英語教育は知性や知識の習得ばかりを強調しているのではない。読み書きは知性とともに感性をも育てうるものである。また、読み書きを重視することと人間的なコミュニケーションの教育が欠けるということのあいだに論理的な整合性はない。

疑問3 言語の基本は話し言葉ではないのか

第三の批判は、言語の基本は話し言葉であり、書き言葉は二次的なものであるから、言語教育はまず話し言葉から行うべきだというものである。たしかに言語学からみれば言語の基本は話し言葉である。話し言葉のない言語は存在しないが、書き言葉のない言語はいくらでも存在するからである。だがそうした学問的根拠からすぐさま日本における英語教育は話し言葉から行うべきという結論を導き出すことは、論証として正しくない。それはまるで人間の音楽性の原点は心臓の拍動に代表される二拍子のリズムであるから、日本における音楽教育も二拍子リズムのカスタネットからはじめるべきであると主張するようなものである。理論と実践を安易に結びつけることは無理筋であり、かつ危険である。

 

その他の読み書き優先論

読解/作文の学習の優先については、たとえば『世界は英語をどう使っているか』(竹下裕子・石川卓 編著、新曜社)のなかで東洋英和女学院大学教授の岡本浩一が、次のように述べている。

読み書きの優位

「英会話ができなければ英語が読めても仕方がない」というような誤解が教育界の風潮のようになり、その結果、そのような感覚を持っている日本人も増えている。しかし、これは間違いである。

 日本はここ120~130年、西洋に追いつく努力をしてきた。その過程で膨大な外国語資料を咀嚼してきたのは読解を通じてである。話せなければ役に立たないという認識はその意味で間違っている。(略)

 学生や後輩が留学することになったといってくると、筆者は必ずあるアドバイスをする。それは、会話の心配をせず、たくさん単語を詰め込んでおきなさいというものである。滞在が始まれば否が応でも話すのだから、会話には存外早く慣れることができる。そのときに単語が豊富に使えれば、積極的に用いてみることでその単語の記憶が強く固定される。そのことで、自分の英語のアクティブな部分が強くなる。

 留学した人を見ると、会話は比較的短期間で一定水準に達する。上手下手の差があまり目立たなくなる印象を持つことが多い。ところが、専門、非専門で深い内容のものをきちんと読み、きちんと理解する、あるいは自分が深く考えたものをその深さがわかるようにきちんと文章で表現するということの個人差はなかなか縮まらない。書きことばの習得の方が、話しことばの習得よりよほど難しいのである。

 文字情報には強制力がある。契約がその顕著な例である。インターネットによって英文による契約が身近なものになった。正確な読み書きができなければ、自分が結ぼうとしている契約の細部に潜む危険が検出できず、大きなトラブルに巻き込まれる可能性もある。インターネット時代になり、外国が身近になったことによって、実は、読み書きの必要性の方が会話よりも高くなっているはずなのである。

(『世界は英語をどう使っているか』p.171-172)



「書きことばの習得の方が、話しことばの習得よりよほど難しいのである」「インターネット時代になり、外国が身近になったことによって、実は、読み書きの必要性の方が会話よりも高くなっているはずなのである」――この2つの事実だけでも、聴解/会話ではなく読解/作文の学習を優先することの意義をわかっていただけるかと思う。そして同時に、それがけっして簡単なものではないことも。

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英語教育論議の基礎知識(4)

World Englishes, イングリック, グロービッシュ

World Englishes

英語教育論議の基本知識(1)では、英語の規範はもっとルースでよいのではないかというKachruの意見をご紹介した。その意見の延長線上には、さまざまな種類の英語が存在してもよいという発想が潜んでいる。すなわち、英語はもはやEnglishではなくEnglishesであるという意識である。

この意識は、研究者のなかではすでに市民権を得ており、World Englishesという学会も存在する。World Englishesの世界を少しのぞいてみると、世界にはじつにさまざまな英語があるものだと感心する。 

イングリック

そうしたWorld EnglishesのひとつとしてのJapanese Englishはどのようなものであるべきか。そのひとつの例として、鈴木孝夫の提唱する「イングリック」を紹介しておきたい。鈴木孝夫は日本でもっとも有名な言語社会学者の一人である。その鈴木がここ20年ほど主張しているのが「イングリックのすすめ」である。2001年に発刊された『英語はいらない!?』(PHP新書)という本から引用しながら、イングリックとその背景について説明していこう。

「英語らしきもの」でいけ
たいていの人は「外国語を学ぶ目的の第一は、そのことばが用いられている国や民族の歴史や文化を学ぶことです」と言います。しかしこのことはいま英語に関する限り、全くあてはまらなくなってしまったのです。英語は国際化したために、特定の国や民族との歴史的なつながりが薄くなり(脱英米化)、文化的にはいわば根無し草の、いわゆるリンガ・フランカ的な側面が大きくなっているからです。(略)
 だから私は英語が国際的に最も広まったから、日本人もそれに習熟しなければと言うときの英語は、もはや英米人の文化と表裏一体をなす、彼らの私有財産としての言語ではなくて、英語という言語を材料としたそれと非常に近い、似た言語、それを私は「イングリック(Englic)」と名付けたのですが、このイングリックを学ぶべきだと二十年も前から主張してきたのです。

(『英語はいらない!?』p102-103)

 
ここで述べられていることは、まさにEnglish as an International Languageとしての英語のことである。ただ鈴木はこれに発展させて、もはやそれは英語ではなく、英語を素材とした別の言語であるとして、それに「イングリック」という名称をつけている。さらに引用を続けよう。

痛み分けこそ国際語
イングリックとは、ひとまず英語を言語素材として、日本人が言いたいこと、自分のことを言うための手段であって、これは英語を元々使う人々(ネイティブ・スピーカー)と、それを学習して使う人々(非英語国民)との中間に位置する、妥協の産物と考えてください。ほんとうは私たち日本人は日本語で世界に向かって言いたいことを言うのは理想だけれども、それはちょっとこちらの弱いところで外国に日本語を教えるのをこれまで忘れていた、だから向こうは学んでいない。そこで当面は英語らしきものを使わざるを得ないという考え方です。(略)
 つまりイングリックは英米人にとっても自分の英語そのものではないという意味で外国語なのです。ただそれでもはるかに英語の方に近いから、日本人にとっての不利な重荷は残るが、本当に英語、つまり相手のものである英語をそっくり学ばなければならないと思い込むよりはずっと気持ちが楽になります。
 それを初めから「あなた方の言語、大切な財産である英語を私たちは間違わないよう一生懸命勉強します」と言ってしまえば、「ああ、いい子だ、いい子だ。俺たちの英語をやるのか。おっ、ちょっと違うよ。ここ直しなさい。ああしなさい」となってしまう。そして「英語が上達するためにはイギリスの歴史、文化、社会についての勉強をやらなければ駄目だ。アメリカ人について学び、彼らの風俗習慣までをそっくり真似しなければ本当の英語が身につかない」ということになって、いつもまにかこれまでのようなアメリカかぶれ、イギリス大好き人間ができてしまうわけです。そしてもともとは全世界と交流し、日本を世界に広く知らせるために英語を学ぶはずだったのが、いつの間にかロシアのことイスラムのこと、隣の韓国のことも何一つ知らない人間ができて、「世界とはアメリカのこと」となってしまう。
 そして一番困ることに、肝心の日本や自分について、英語で何一つ語れなくなってしまう。だからそれを防ぐためには、何と言っても国際的に通じなければ国際語とは言えないのだから、英語という国際的に広く用いられている言語をできる限り活用する。ただしそれはイングリックだ、英語そのものではないと一方的に主張し、その気持ちで堂々と使えば、結果としては相手の「本当の」英語をオドオドしながら下手に使うよりはるかに通用する。自分の言うのも変ですが、このイングリック(Englic)は結構いい名称だと思いますよ。English-like language(英語みたいな言語)というわけですから。これを見れば英語に関連した言語であって、しかも英語(English)ではないことが一目で分かる。
 これからの国際語というのは、世界のどの民族も少しずつ、公平にそれなりの負担や持ち出しを覚悟する、大岡裁きにある三方一両損の痛み分けで行くべきだというのが私の考えなのです

(同上、p103-107)



前半は「英語崇拝からの脱却」について、後半は「国際的とはみんなが公平に痛みを分かち合うこと」についての説明だ。この二つを実現する道具として鈴木はイングリックを提唱してきたという。エスペラントの発想にきわめてよく似ている。

まことに過激な意見であると思う人もいるかもしれない。だが本当にそうだろうか。この鈴木の主張は、Kachruの主張と何も変らない。イングリックとは、ようするにEILのひとつなのである。この本が出版されたのが2001年で、その時点で鈴木はイングリックを20年も提唱しているのだから、1980年代初頭から言い続けていることになる。当時はまだ鈴木の主張をまともに理解できる人は日本にほとんどいなかったと考えられる。しかしその後、1984年には前述のQuirkとKachruの論争があり、そしてWorld Englishesの国際学会もできた。世界は鈴木の提唱した方向へと歩み出したのである。

グロービッシュ

鈴木の「イングリック」にはたしかに一理ある。だがそれが現実的かというと、全面的には賛成しかねる。たとえばイングリックのルールのひとつに「英語の不規則な変化(動詞や名詞など)を無視する」というものがある。たしかにgo-went-goneの変化に意味はない。いわば英語の盲腸のようなものだ。go-goed-goedのほうが合理的ではある。しかしそれは理想として正しいのかも知れないが、現実としてはHe goed to the park.という表現を実際のビジネス交渉の場などで使うのはやはり無理筋だ。

そうした無理筋を取り除いたかたちで、いま脚光を浴びているのが、グロービッシュ(Globish)である。グロービッシュとは、元IBM社重役でフランス人のジャン・ポール・ネリエール(Jean-Paul Nerrière)が考案した国際共通語のことである。

グロービッシュの言語面での特徴は、単語数を1500語だけに絞り込んだこと、文法や発音をできるかぎりシンプルにしたことなどだが、重要なポイントはそうした言語的特徴にあるのではない。もしそうであれば、グロービッシュもベーシックイングリッシュなど数多くの簡易英語の一変種にすぎない。

グロービッシュの最大の特徴は、提唱者のネリエールがそれを英語「ではない」と規定しているところにある。ネリエールは、次のようにいう。

It is very important that the Globish name is not “English for the World” or even “Simple English.” If its name were any kind of English, the native English speakers would say. “OK, we won. Now all you have to do is speak better English.” Without the name Globish, they will not understand it is a special kind of English, and it is no longer “their” English.

(Globish The World Over, Jean-Paul Nerrière and David Hon,より抜粋)

 

とても重要なことは、グロービッシュは“ワールドイングリッシュ”でもなく“シンプルイングリッシュ”でもないということだ。グロービッシュが英語なのであれば、英語ネイティブたちは「それなら私たちのものだ。君たちがしなければいけないのは、もっと英語がうまくなることに尽きる」というだろう。もしグロービッシュという名前でなければ、彼らはそれがまったく特別な英語なのであり、そして、彼らのものではないということを理解しないことだろう。(訳 成瀬)



ネリエールがいいたいのは、グロービッシュは“不十分な英語”ではなく“十分な国際共通語”だということである。したがって英語のネイティブもまたグロービッシュを学ばなければならない。そうでないと、現在の世界人口のわずか12%しか占めていない英語ネイティブたちは、残り88%の英語ノンネイティブたちとうまくコミュニケーションができないことになる。実際、英語ネイティブ同士のコミュニケーションは国際コミュニケーションのわずか4%を占めているにすぎないという調査結果が出ている。残りの96%の国際コミュニケーションは英語ノンネイティブが一人以上いる状況でなされており、そこでの共通語となるのがグロービッシュなのである。ネリエールはこういう。

We want everyone to able to speak to and understand everyone. There is a middle ground, but the native English speakers are not the one drawing the borders. And because you may not be able to say this to a native speaker, who might not to able to understand – we will say it here.

世界中の誰もがお互いに話しあうことができ、わかりあえるようになりたいものである。そのためには共通の言語が必要だ。だがその言語がどのようなものなのかを決めるのは英語ネイティブではない。ところが英語ネイティブたちにはそのことがわからないかも知れない。そこでそのことを彼らにうまく伝えられないかもしれない皆さんのために、我々がここでそれを主張していきたいのである。(訳 成瀬)



すでにお気づきのかたが多いと思うが、ネリエールの主張は鈴木孝夫の主張とほぼ同じである。ネリエールはそれをグロービッシュと呼び、鈴木はそれをイングリックと呼んでいるにすぎない。いずれも中核となる思想は、これからの国際共通語の規範は英語ネイティブが決めるのではなく、世界のみんなが納得できるかたちで決めるべきだということである。

さてグロービッシュは、これから普及していくのだろうか。まず提唱者のジャン・ポール・ネリエールがフランス人で元IBM社重役であるという事実は、今後のグロービッシュの普及に大きな役割を果たすだろう。これがインドネシアの教育者とかであれば、そうはいかない。また米国の世界支配の衰退と中国やブラジルなどの非英語圏の勃興がはじまっており、これが英語に代わる国際共通語を強く求める声につながっていくとも思われる。そうした点を鑑みると、これまでのエスペラントやベーシックイングリッシュとは違って、グロービッシュはひょっとすると普及するかもしれない。

 

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英語教育論議の基礎知識(5) 

学校文法のはなし

15、16世紀まで英語に文法はなかった

そもそも15、16世紀ぐらいまで、英語には文法というものがありませんでした。皆さんのなかには「文法」というものは昔から自然と存在するもののように考えている方もいるかも知れませんが、そんなことはありません。英語にしてもフランス語にしても日本語にしても人々はずいぶん昔からそれぞれの言語を使っていましたが、みずからの言語を体系化しよう(これが文法です)と考えはじめたのは、それほど古い時代ではありません。ヨーロッパでは宗教改革の頃から、日本では江戸時代後期からのことです。

イギリスで英語の文法をつくろうという機運が高まったのは、16世紀の終わり頃からです。当時のイギリス人は自国語たる英語に対して大きな劣等感を抱いており、その劣等感を克服するために、当時まだ貧弱であった語彙を増やし、そして独自の文法を確立しようとしたのです。その際のお手本となったのは、もちろん当時のヨーロッパ知識人の共通語たるラテン語の文法でした。

Lindley Murrayの"English Grammar"

その後のイギリスの国力増大にあわせて、さまざまな試行錯誤ののち、英文法なるものがようやく完成期を迎えたのは、1795年に発刊されたLindley Murrayの『English Grammar』に至ってのことでした。これは日本でいえば寛政年間、あの「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が江戸の町で大活躍していた頃ですね。それから約200年の長きにわたり、イギリスやアメリカの人々は、Murrayが完成させたこの英文法を使って、英語という言語の体系を、理解あるいは学習してきました。

さて20世紀に入ると、言語の研究自体が飛躍的に進歩しました。それはまさに革命的ともいえる進歩でした。そのため現在では、言語研究者にとってこうした伝統文法の探求は、文献学的研究以外、もはや興味の対象とはなっていません。これはまあ仕方のないことですね。

しかし我々のような一般人にとっては、Murray文法の末裔たる学校英文法は、現在においてもなお、英語を確実に読み解くための道具としてきわめて有用なものでありつづけています。というよりは、それに完全にとって代わるものがまだないというのが実際のところかもしれません。

Murray文法を純粋に言語理論的な面からみれば、それは統語論、意味論、形態論などの寄せ集めにすぎないといってもよいでしょう。そのため、突き詰めていくと理屈に合わないところが数多く見受けられます。同じ「法」とはいっても、物理学におけるニュートンの力学の法則とは本質的にちがうものです。物体の運動は万有引力の法則にかならず従います。上から落とした石が途中から浮かび上がるなんてことは絶対にありません。当たり前ですね。しかし英文法というものは決してそういうものではない。Murrayの文法に従わない英語表現など、ロンドンやニューヨークの街中のそこいらじゅうにころがっています。つまり英文法とは普遍法則ではなく、英語文化圏の「法律」とでもいうべきものなのです。

そもそもこの文法をつくったMurrayという人物は、和解調停を得意とした人格温厚な弁護士でありました。おおいに成功して弁護士を引退したのち、近くの女学校から英語教科書をつくってほしいと頼まれて編纂したのが、このMurray文法書でした。Murrayは、その時代のさまざまな文法研究書から適当と思われる部分をうまく取捨選択して、ひとつの体系としてまとめあげました。このようにMurray文法書は、だれにでもわかりやすい英語の仕組みの説明書として出来上がったものでした。我々一般人にとってMurray文法がとても使いやすいこと、ただし理屈で突き詰めて考えると腑に落ちないことがたくさん出てくることの理由は、ここにあります。

 

学校英文法はMurray文法の末裔

ちなみに、このMurray文法の末裔のひとつが日本の学校英文法であることは覚えておくべきでしょう。日本で最初の英文法書である『英文鑑』(天保12[1841]年)は、このMurray文法のオランダ語訳からの重訳だそうです。このへんについてご興味のある方は、「英文法を知っていますか」(渡部昇一、文春新書、ISBN4-16-660344-2、720円)を読んでみてください。この文章のネタ本のひとつであり、なかなかに面白い本です。
 

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英語教育論議の基礎知識(6)

英語大論争:英語教育は実用本位か、教養本位か

平泉・渡部論争

英語教育をいかにおこなうべきかの議論は、明治以降、さまざまなかたちで絶えず行われてきています。そのなかで最も有名な論争のひとつが、1975年(昭和50年)、自民党参議院議員の平泉渉と上智大学の教授の渡部昇一とのあいだでおこなわれた「英語教育は実用本位でいくべきか、それとも教養本位でいくべきか」というテーマの論争でした。これは「平泉・渡部論争」と呼ばれています。

1974年(昭和49年)、自民党の政調審議委員であった平泉渉氏(参議院議員)が政務調査会に「外国語教育の現状と改革の方向」と題する試案を提出しました。平泉氏の意見は「これまでの日本の外国語教育は学習にかけている時間の割には、実際における活用の域にまでは達していない。事実上、日本の子どもたちのほとんどが6年にわたって毎週数時間の英語の授業を受けながら、その成果は全くあがっていない」というものでした。試案の具体的な中身は以下のとおりです。

<実状>

高校・大学のいずれも入試科目として英語が課せられていない例はほとんどない。事実上、全国民に英語の授業が義務的に課せられている。

義務的に課せられているにもかかわらず、その学習した英語はほとんど、読めず、書けず、わからないというのが実状である。

 理由の第一は、英語ができなくても日本の社会で困ることはなく、英語は受験のための必要悪にすぎないため、学習意欲が欠如しているからである。第二は、「受験英語」の程度が高すぎるので、学習意欲を失わしているためである。第三に、日本語とは語系の異なる英語に対して欧米と同様の非効率な教授法が用いられているためである。

 

<検討すべき点>

 外国語教育を事実上全国民すべてに対して義務的に課すことは、はたして妥当か。

外国語としてほぼ独占的に英語を選んでいる現状は、はたして妥当か。

より成果を高める方法はないのか。


そして試案は次の提案をしています。

<提案>

中学校の英語教育は、実用上の知識として中学1年終了程度にとどめる。

高校においては、志望者のみに外国語教育を課し集中訓練を行う。


平泉氏は外国語(英語)教育の目的を、次のようにしました。「我が国の国際的地位、国情にかんがみ、わが国民の約5%が外国語、主として英語の実用的能力をもつことが望ましい。」

平泉氏が受験英語を「必要悪」であるとしたのに対して、渡部氏は、受験英語は日本人の知的訓練に役立っていると主張し、「教養」としての英語教育という立場から、真っ向から反論を行いました。

渡部氏の反論の趣旨は、以下のとおりです。

 

異質の言語で書かれた内容ある文章の文脈を、限りなく追うことは極めて高い知力を要する。知的訓練としての外国語との格闘の重要性を認識すべきである。

 「学習した外国語は、ほとんど読めず、書けず、わからない」からといって、その成果はまったくあがっていないというのは甚だしい短見である。学校における英語教育は、その運用能力の顕在量ではなく、潜在力ではからなければならない。実用になるほどの外国語能力が普通の学校の授業で養成しうるというのは、迷信である。

 5%のエリート養成をめざす教育は、国民を混乱させ、義務教育の構造をこわす「亡国の案」であり、英語漬けの教育はそれによって育つ5%のエリートをも歪める。


渡部氏は、学校英語教育の目的を次のようにしました。

 

「アメリカに行って3か月、半年後になって、着実に伸びる土台を与えること」


二人は、その後ふたたび論争することはなく、議論がこれ以上深まることもありませんでした。

 

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英語教育論議の基礎知識(7)

英語大論争:小学校英語は是か非か

(注:本論は2011年9月4日に書いたものです)

小学校での英語教育には、英語ができるほど否定的、できないほど肯定的

最近小学校に英語授業が導入されたのはご承知のとおりですが、その是非について、いま熱い論争が繰り広げられています。ただ、今回の論争には、これまでと少し違う側面があります。英語の専門家になればなるほど小学校での英語教育について否定的であり、逆に英語の素人であればあるほど肯定的だという点です。

たとえば小学校英語の否定論者の代表格としては、立教大学教授で元同時通訳者の鳥飼久美子氏、言語学者で慶応大学教授の大津由紀雄氏などが挙げられます。彼らは多くの著書をつうじて小学校英語がいかに無意味なものか、逆に子供たちの言語能力の発達に害を与えかねないものなのかを、理路整然と論じています(『危うし!小学校英語』(鳥飼久美子)、『小学校英語は必要ない!』(大津由紀雄、他)など)。

彼らはまさに英語のプロ中のプロです。その達人たちが口をそろえて、英語をマスターするには小学校から英語を勉強する必要はなく、逆にあまりに小さな頃から英語を教えると子供の言語能力の健全な発育を阻害しかねないと主張しているのですから、当然その意見が尊重されるかと思いきや、なんと、それがそうではないのです。

それどころか、英語のできない人であればあるほど鳥飼さんや大津さんの主張をかなり冷ややかに聞き流しているようです。その一例がサイトでひろった以下のコメントです。

非常に高度な英語力を持つ専門家の間に、かえって早期教育に反対する傾向が目立つように思われる。そして、こうした反対意見は、英語に苦しんでいる一般の人や、実務を通じて今の英語教育に危機感を感じている英語の非専門家などの視点から距離があるため、こうした人たちの疑問や要望に応え、納得させるものとはなっていないように感じている。例えば、元通訳者の鳥飼玖美子教授は、小学生の英語教育に反対する理由として

- 言語はある程度の年齢までに始めないと習得できないという臨界期説は実証されておらず、早く始めれば英語がペラペラになるというのは幻想。

- 帰国子女であっても、子供の英語から脱皮しておとなの英語を習得するには、きちんとした学習が不可欠。

- 小学生にちゃんとした英語を教える能力がある教師を揃えることはできない。

などをあげている。しかし、これらはどれも小学校での英語教育が不要だということを示す直接の理由にはなっていないと思う。臨界期説が証明されていないとしても、それは早く始めても意味がないという論拠にはならない。また、大多数の人は「子供の英語」「おとなの英語」を云々する以前のレベルで苦しんでいるのではないだろうか。教師の問題は現実的にはそうだろうが、早期教育自体の是非とは直接つながらない話だと思う。


ようするに、早期英語教育が無駄だとは実証されていないのだから、とにかくやればいいではないか、もしやらなければ自分の子供たちも自分と同じように英語ができないままになるかもしれないのだから、という意見なのです。そしてこれが「一般的」日本人の英語教育に対する感覚だといってよいでしょう。


このような「サイレントマジョリティ」の意見を背景に、いま着々と日本のなかで児童英語の業界がかたちづくられているところです。たとえば、ある大手予備校ではこれを新たなビジネスチャンスととらえ、児童英語ビジネスへと参入してきています。こうした動きは今後さらに加速していくと予測されます。

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 英語教育論議の基礎知識(8)

日本人は本当に英語が読めるのか

日本人は英語を読めるが会話ができないという通説がある。本当だろうか。これを検証するには、まず「英語が読める」とはどういうことかを定義づける必要がある。いろいろな定義づけが可能だが、ここではグローバルな仕事や研究で英語を使いこなすという観点から、英語が読めるということを考えてみたい。 
 

英語を英語として読めているか

まずなによりも重要なのは、英語を英語としてそのまま読めなければならないということである。英文和訳をして日本語に変えてから意味を理解しているようでは本当の意味で英語を読めることにはならない。英語を英語として読めているかどうかを判定するには、ペーパーでのテストではなくリスニングでのテストをすればよい。ペーパーテストでは英文和訳や返り読みができるがリスニングテストではそれができない。英語を英語の語順のまま聞いて(読んで)いかざるを得ない。もし英語の発音が苦手だから聞き取れないというのであれば日本人に読んでもらってもよい。いずれにしろこうすれば被験者が英語を英語として読んでいるか、あるいは日本語に置きなおして読んでいるかが判定できる。 

十分なスピードで読めているか

つぎに重要なのは、あるレベル以上のスピードで読めなければならないということである。「あるレベル」とは、具体的にいえば1分間300ワード程度のリーディングスピードである。これが一般的な英語ネイティブのリーディングの速度なのである。教養あるネイティブであれば1分間500~600ワードという人も珍しくない(これはいわゆる速読ではなく、きちんとした通常のリーディングでの話である)。1分間300ワードのリーディングスピードをもっていれば、ちょっとした英語の本は1日で読むことができる。ビジネスレポートや論文なども大量に読めるので仕事にも不自由はしない。逆にリーディングのスピードが1分間100~150ワードであれば、まともに英語の本や論文を読むことはできない。私が測定したところTOEIC600~700点程度の日本人のリーディングスピードが1分間で100~150ワードだった。つまりTOEIC600~700点程度の英語力では実際の仕事のリーディングにはほとんど対応できないということである。 

語彙力は十分か

つぎに語彙力だが、これも実際の仕事や研究に使うとなれば、かなりの高度な能力が要求される。ただし、ボキャブラリーは分野ごとにまったく違うものになっているので、その分野の専門語彙さえ熟知していれば、他の分野の語彙は知らなくとも十分に専門テキストについては読むことができる。理科系に英語を読みこなすことのできる人が多いのは、彼らが自分の専門領域の専門語彙に習熟しているからである。 

テキスト全体を理解できるか

さらにテキストの全体構造を理解する能力も重要である。ひとつひとつのセンテンスの意味が理解できてもテキスト全体の意味が理解できないようでは正しく読めたことにはならない。 

以上のことから、ビジネスや研究の世界で無理なく英語が使えるだけの英語リーディング能力を持っている日本人の数は、きわめて少ないことがわかる。少なくともこの観点からみれば、日本人は英語を読めるが会話ができないという通説は、間違いである。

 

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英語教育論議の基礎知識(9)

文法学習は必要か

「文法学習は必要なし」には裏がある

この問いに対して「必要ない」と答える外国語教育の専門家は、基本的にはいないはずである。外国語学習において文法構造の意識的な習得が重要かつ効率的であることはあまりにも明白だからである。

 

それでも「必要ない」と主張する専門家がいるとすれば、単なる無知か、あるいはなんらかの利害関係にからんでいるかである。無知な専門家については勉強してもらう以外に方法はない。問題は、専門家が「なんらかの利害関係」にからんでいるケースである。

 

ダイレクト・メソッドーーネイティブに都合の良い英語教授法

英語教授法のひとつに「ダイレクトメソッド」がある。ダイレクトメソッドとは、文法訳読方式を打破するべく20世紀初頭に欧米で開発された新教授法の総称である。グアン・メソッド、ベルリッツ・メソッド、オーラル・メソッドなどがその例だ。ダイレクトメソッドでは外国語習得を母語習得と同一とみなし、母語を介さずに目標言語だけ使って指導する。文法事項については帰納的に習得していく。欧米で実践が行われて成果をあげたことから、たちまち外国語学習メソッドの中心に躍り出た。日本でも第二次大戦の敗戦後にハロルド・パーマーなどによって紹介され、またたくまに英語教育界を席巻した。

だがダイレクト・メソッドは欧米世界で生まれ育った言語学習メソッドであり、たとえばフランス人やスペイン人に英語を教えるためのものであった。英語、フランス語、スペイン語はインドヨーロッパ語に属する兄弟言語で、言語構造も語彙構造も酷似している。したがって目標言語だけ使って指導しても学習者が文法習得に困ることはない。一方、日本語と英語は文法構造が本質的に異なる言語であるから、英語だけの指導では文法構造を帰納的に習得していくことはきわめて困難である。

にもかかわらず、ダイレクト・メソッドが日本の英語教育界をも席巻したのは、ダイレクト・メソッドが英語ネイティブにとって都合のよい教授法だからである。ダイレクト・メソッドを使っているかぎり彼らは日本語を勉強しなくてよい。またオーラル中心であるためにネイティブであれば誰でも英語教師として通用する。こうしたことから英会話学校ではいまもダイレクトメソッドを表看板にするところが少なくなく、そうしたところに利害関係を持つネイティブ教師や日本人英語教師がダイレクト・メソッドを擁護し、文法学習は必要がないと主張しているのである。

どのような文法を学習すればよいか

さて文法学習が必要であることは間違いないが、ではどのように文法を学習すればよいのかについては、専門家のあいだでも意見がまとまっていない。ダイレクトメソッドが欧米で急速に広がったのは、従来の文法訳読方式が実際の外国語コミュニケーションでは役に立たなかったためである。日本の学校英文法は欧米伝統文法の嫡子であるから、当然ながら実際の外国語コミュニケーションには、ほとんど役に立たない。それなりの弊害もある。さらに言語系統がまったく異なる日本語を母語とする日本人にとっては英語伝統文法そのものが本質的に理解しがたいものでもある。

したがって、従来型の学校英文法をそのままのかたちで学ぶことに対しては、外国語教育専門家のなかにも批判の声が多い。具体的な改革の動きもすすんでいる。たとえば大西泰人や田中茂範などは認知文法の観点から新しい英文法学習を提唱し、積極的に活動をおこなっている。

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英語教育論議の基礎知識(10)

どのような英語発音を目指すべきか

苦手意識の第一要因は、英語の音

日本人の英語に対する苦手意識の第一の要因は、英語の音が正確に聞きとれない、正確に発音できないということにあるのではないかと、私はつねづね考えています。なぜかというと、私がそうだったからです。


私が本格的に英語の勉強をはじめたのは、20歳をすぎてからのことでした。最初のうちは英語を一言たりとも聞きとることができませんでした。すべての会話が「XXXXXXXXXXXXXXX」だったのです。これは私にとってとても大きなショックでした。まさか、ここまで聞こえないとは思っていなかったからです。

さらにショックだったのは、自分にまったく聞えとれないこれらの音が、英語のネイティブたちには苦もなく聞きとれることでした。ネイティブには聞こえてノンネイティブの自分には聞こえない――冷静に考えれば至極当然のことなのですが、英語を勉強しはじめたときにはなかなかそう思えませんでした。それだけのことで、なんだか自分がネイティブよりも一段レベルの低い人間のようにも思えたものです。

さらに重要なことは、この英語の音に対するコンプレックスは、同時に日本人の英語ネイティブ崇拝の源でもあるということです。誰しも自分にできないことを簡単にやってしまう人間にはあこがれを抱くものです。野球少年はイチローに、サッカー少年はメッシや香川に、そして英語学習者の場合、自分にはできない英語発音をいとも簡単にやってしまう英語ネイティブに(たとえそれがどんな人物であれ)あこがれを抱くというわけです。

英語コンプレックスにしてもネイティブ崇拝にしても、冷静に考えればバカバカしいの一言です。だから自分だけはそんなことはないと一人一人が思いがちです。しかし、そんなことはないのです。日本人の英語観には英語に対するこのコンプレックスと崇拝が必ずどこかに潜んでいます。私たちはその事実をまず認め、どうすればそこから脱却できるのかを考えなければなりません。そしてそこから脱却できたときこそ、私たちは英語を本当の意味でマスターできたといえるのです。

日本人アクセントは私たちの個性

ただし間違ってはいけないのは、それは英語の発音がネイティブ並みとなったときではありません。そんなことにはそもそもなりませんし、たとえそれに近くなったとしても、それが英語をマスターしたことにはなりません。それは単にネイティブ「もどき」になっただけのことです。英語をマスター「した」のではなく、英語にマスター「された」のです。

そうではなく、日本人アクセントが残っている自分の英語を自分の個性なのだと正しく受け入れられたとき、自分の日本人アクセントが気にならなくなったとき、そのときこそが、私たちが英語を本当にマスターした時なのです。

カタカナ英語は英語ではない

そのいっぽう、いわゆる「カタカナ英語」もダメです。なぜならカタカナ発音はそもそも英語ではないからです。英語ではないのだから日本人としてのアクセントもなにもあったものではありません。ところがこの点を誤解あるいは曲解して「日本人はカタカタ発音でも十分だ」と主張する人々もなかにはいるようです。そこで念のために英語と日本語の音の違いについてここで少し説明しておきます。

日本語の音はシンプル、英語の音は複雑

まず認識しておくべきは、日本人は手や目はとても器用であるけれど口や耳はとても不器用だという事実です。なぜ日本人の口や耳が不器用かというと、それは器用になる必要がないからです。

日本語の音の種類はとても少数です。「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ、……、りゃ、りゅ、りょ、……じゃ、じゅ、じょ、……、ん」など100音少しです。これは世界の言語のなかでもきわめてシンプルな部類に入ります。日本語よりも音の数の少ない言語はそれほど数多くありません。

いっぽう英語には数千種類もの音があります(a, an, the, is, are, move, take, brings, splash, strengthenなどなどですが、例を挙げだすときりがありません)。すなわち日本人の耳は人間の口から発生する音声を約100種類に弁別しているだけなのに対して、英米人の耳はそれを数千にも弁別しているということです。

これだけで「カタカタ発音で十分」という論が成り立たないことがわかると思います。カタカナ英語とはカタカナという近似値でも英語として十分に通用するというものですが、日本語の音に比べてケタ違いに数の多い英語の音を日本語の音体系内で代替することは、あきらかに無理筋です。カタカナ発音は英語発音の近似値とはなり得ません。

緒方貞子、カルロス・ゴーンを目指す

ネイティブ発音を目指して不毛な努力を積み重ねることに意味がなく(有害でもあり)、一方で、たんなるカタカナ発音もまた避けなければなりません(そもそも英語ではないのですから)。とすれば、私たち日本人はどのような英語発音を目指せばよいのでしょうか。

たいへんによい例があります。元国連難民高等弁務官で現国際協力機構理事長の緒方貞子さんの英語です。緒方さんの英語発音は、ネイティブの発音ではありません(ご本人はさまざまな場所で育っておられます)。英語ネイティブからみれば「外国人なまり」の国際英語です。しかし、緒方さんの国際英語をレベルの低いものだとみなす人は、世界に一人もいないことでしょう(少なくとも、まともな知性の持ち主であれば)。

また日本人ではありませんが、日産自動車社長のカルロス・ゴーンさんの英語の発音もまた、世界中の人々が認める「外国人なまり」の英語発音です。

日本人であれ外国人であれ、このような外国人なまりの国際英語を使って立派な仕事をなされている人々は、ほかにもたくさんおられます。そうした人々の英語発音こそ、私たち日本人にとってのモデルとなるべき英語発音なのです。

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英語教育論議の基礎知識(11)

英語の語彙

アングロ・サクソン語系語彙とラテン・ギリシャ語系語彙

英語は、アングロ・サクソン語系語彙とラテン・ギリシャ語系語彙の2つの語彙体系を合わせ持つ「二重語彙」の言語です。日常的な表現は主にアングロ・サクソン語を使い、公的な表現は主にラテン・ギリシャ語を使うという、使い分けをしています。

アングロ・サクソン系語彙は英語のふるさと

英語が古代ドイツ語から離れて英語として独立したのは、西暦700~1100年のことです。日本でいえば奈良平安の時代です。この時代を、英語学者は「古英語」時代と呼んでいます。

「古英語」時代の英語とは、一言でいえば、古ドイツ語そのままです。ドイツ語と同じく冠詞は格変化し、語順もSVO以外にOVSなども許容していました。当時の語彙は純粋なアングロ・サクソン語系の語彙だけであり、ラテン語系の語彙やギリシャ系の語彙はほとんどありませんでした。

古英語から現代英語に引き継がれている語彙のほとんどが、身近な言葉たちです。冠詞、前置詞、代名詞、助動詞、hand, foot, head, neck, nose、give, get, take, comeなどなどです。発音はシンプル(単音節)で、たくさんの派生語彙や表現をつくりだすのが特徴です。

英語ネイティブが日常に使う語彙のうち、こうしたアングロ・サクソン系の語彙の割合は8割を超えています。日常生活は、ほとんどアングロ・サクソン系語彙だけで用が足りるのです。

歴史が順調に進んでいたならば、いまの英語はドイツ語とほぼ同じ言語になっていたことでしょう。ラテン語の末裔であるイタリア語とスペイン語が、いまでもある程度は通じあうように、現代の英語とドイツ語がいまでも通じ合っても、決しておかしくはありませんでした。しかし実際には、現代英語と現代ドイツ語は大きく異なってしまいました。その最大の理由のひとつが、1066年に起こった「ノルマン・コンクェスト」という大事件です。

1066年のノルマン・コンクェストが大転機

1066年、イギリスで「ノルマン・コンクェスト」(ノルマン人の制服)と呼ばれる歴史的な大事件が起こりました。北フランスのノルマンディー領主ウィリアム公が、イギリス王位を継承する権利があると主張して、イギリスに戦争をしかけてきたのです。当時のヨーロッパ世界では、王位継承争いは珍しくなく、王様がよその国を征服してもおかしくはありませんでした。普通であれば、そうした戦争によって王様は入れ替わりますが、その下の貴族や宗教者などの社会の支配階層については、土着の人々がそのまま残されるのです。

ところがこの時には、ノルマンディー公ウィリアムとイギリス軍のあいだに激しい戦いがつづき、それまでにいたイギリス人の貴族たちがなんと一掃されてしまいました。その結果、英語を話す土着の貴族階層がイギリスにほとんどいなくなってしまったのです。

代わりにイギリスの支配階層となったのはノルマン人、つまりフランス語を話す人たちでした。貴族が入れ代わると、貴族についてくる騎士も代わり、商人や宗教者も代わります。こうして、イギリスの支配階級はすべてフランス語を話す人たちになってしまいました。一方、上流階級が入れ代わっても、小地主や農民、農奴といった下層階級は従来のままです。そして彼らは、英語を話す人たちでした。

こうして1066年を境に、イギリスでは貴族、騎士、商人、僧侶といった社会の支配階層はフランス語で生活をし、小地主、農民、農奴といった社会の被支配階層は英語で生活をするという、社会的な二重言語体制ができあがりました。そしてこの社会体制が、その後300年ものあいだ、続くのです。

その結果、英語の語彙には奇妙なことが起こりました。たとえば、英語では牛をOx、豚をPig (Swine)、子牛をCalf、羊をSheep、鹿をDeerといいます。ところが、これらの動物が食卓にのせられると、それぞれBeef、Pork、Veal、Mutton、Venisonというふうに、ラテン語系の語彙になってしまうのです。

このことは、生きた動物を飼育していたのは被征服民族で英語を話すアングロ・サクソン人であり、それを料理して食卓で食べていたのはフランスから来たフランス語を話す人たちだったということを示しています。ドイツやフランスでは、生きている牛も食卓にあがる牛も同じ語彙を用いています。生きた動物とその料理された肉の語彙を使い分けているのは、英語ぐらいのものなのです。

もちろん、こうした英語語彙の二重化は牛や馬の話だけではありません。たとえば、人体に関する表現でも、英語ではラテン系語彙とアングロ・サクソン系語彙を使い分けています。「目」はアングロ・サクソン系語彙ではeyeですが、「視界」はラテン系ではsightやviewです。「手」はアングロ・サクソン系のhandですが、「手動」となるとラテン系のmanualが使われます。「耳」はアングロ・サクソン系のearですが、しかし「聴覚」になるとラテン系auditoryという語が顔を出します。「腹」はbellyですが、「腹部」ならabdomenといった具合です。

16世紀、ルネサンスの到来

ノルマン・コンクェストによる語彙の二重構造化にさらに拍車をかけたのが、第二の出来事、ルネサンスの到来でした。16世紀、ギリシャ・ラテン古典作家の影響がイギリスにも押し寄せたとき、イギリスの学者たちは、ギリシャ・ラテンの文献の英語への翻訳を開始しました。

ところが、ギリシャ語やラテン語に置き換えることのできる語彙が、その当時の英語のなかにはありませんでした。そこで当時のイギリスの知識人たちは、ギリシャ語やラテン語の語彙を、英語のなかに「そのまま」取り込みました。それが、英語のなかに新たな外来語の語彙層を形成していくこととなったのです。

それらの語彙の大半は、ラテン語系の語彙でした。そしてそのほぼすべてが、土着のアングロ・サクソン系の語彙よりも格上あるいは公的な語彙であるとみなされました。かくして現代英語の語彙は、よくいえば、現代西欧言語のなかで最も多様性に富むものになりました。

ただし悪くいえば、それは西欧諸言語の語彙の「ごった煮」ともいえるものであり、あまりにも語彙数が多いため、外国人のみならずイギリス人やアメリカ人にとっても、英語の語彙を十分に習得することはとても難しいのです。そのため、アメリカやイギリスの学者や知識人のなかには、英語の語彙をきちんと整理していかなければならないという意見がかなり多くあります。この点において日本語での漢字の状況と、とてもよく似ています。

日常生活はアングロ・サクソン語系語彙、学問や文化はラテン語系語彙で

現在の英語では使用頻度の最も高い語彙の8割をアングロ・サクソン系語彙が占めています。しかしその大半は、冠詞や前置詞や代名詞、基本動詞や基本名詞にすぎません。

いっぽう、学問、産業、文化といった知的分野や芸術的分野では、フランス語・ラテン語系語彙の使用数は、アングロ・サクソン系語彙の使用数の3倍にも達します。現代の英語では、フランス語やラテン語系の語彙を使わなければ、学問や産業や文化が成り立たないのです。

こうして英語の世界では、日常生活はアングロ・サクソン系の語彙、法律や政治や学問といった公的な場ではラテン・ギリシャ系の語彙が用いられることになりました。英語が国際語となった現在でも、この状況は基本的に変わってはいません。

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