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ネイティブ英語と国際英語

ネイティブ英語支配の英語観

これまでは、英語といえば英米人が使うネイティブ英語(Native English)のことであると、疑問の余地なく考えられてきた。そして私たちのような英語ノンネイティブが使う英語は、ネイティブ英語に比べると、格段にレベルの低いものとして評価されてきた。こうしたネイティブ英語支配としての英語観を図に示すと、次のようになるだろう。

​ネイティブ英語支配としての英語観

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

封建社会に例えると、American EnglishとBritish Englishが王様と女王様である。カナダや豪州などのNative Englishesは、その家臣に位置づけられる。そしてそのほかのEnglishesは、被支配側の平民たちといったところだ。

国際英語/ネイティブ英語並存の英語観

しかし最近になって、こうしたネイティブ英語中心の英語観に対して、世界共通言語としての「国際英語」を、もうひとつの中心とする英語観が台頭してきた。その英語観を図に示すと、次のようになる。

 

 

国際英語/ネイティブ英語並存の英語観

ここで示されているのは、国際英語はネイティブ英語をルーツとしているものの、すでにそこから離れて別の言語として独立し、ネイティブ英語と併存するようになった、という考え方である。

心の翻訳モデルとして言い方をすれば、ネイティブ英語とは、ネイティブ社会という社会的な要請を満たすことを目的とした英語の一種であるといる。しかしながら、現在の世界での英語コミュニケーションの大半が、英語のノンネイティブのあいだで行われているという現実からみると、英語においてネイティブ英語のほかに国際英語をもうひとつの中心と規定するという考え方は、きわめて妥当かつ説得力のあるものいえるだろう。

ネイティブ英語と国際英語の違い

ただし、ネイティブ英語とは異なる独立した地位を得たからといっても、国際英語はそもそもネイティブ英語をルーツとするわけであるから、本講座で説明してきた英語としての世界認識のあり方や言語の構造そのものが、ネイティブ英語と国際英語で本質的に異なる訳ではない。国際英語もまた、個・天の視点を世界認識の基本としており、名詞は三層認識を持ち、動詞は五層認識を持っている。

その一方で、ネイティブ英語が持つ文化的な側面については、国際英語では完全に排除されなければならない。国際英語は、世界中の人々にとって使いやすいコミュニケーションと思考のツールでなければならず、そうであるがゆえに、文化的には中立でなければならないからである。

命題・情報構造・情意ではなく、おもに文体に違いが現れる。

心の翻訳モデルの要素のうちの命題、情報構造、情意、文体という言語面での4要素に即して考えてみる場合、ネイティブ英語と国際英語の違いは、命題・報構造・情意の部分ではなく、文体の部分に集中して現れてくる。

たとえば、英米文化を背景とする語彙(複合動詞等を含む)や、英米文化を背景とする比喩表現、繰り返しを避けるための過剰な言い換え表現については、国際英語では避けるべきである。また、国際英語は世界中の人々にわかりやすい文体を目指すことから、過剰に複雑な構文、過剰に専門性の高い表現、過剰な名詞化なども避けなければならない。

言い換えると、国際英語では文体的な価値をネイティブ英語よりも重視しない、ということである。国際英語が重視するのは、明晰で論理的な構造と、世界の誰にもわかりやすい平明な文体である。

国際英語の使用領域

国際英語を使用する領域を具体的に考えると、たとえば、ビジネスや学問のテキストについては、情意・文体の機能をあまり重視しないことから、国際英語とは非常に相性がよいといえるだろう。なかでも、グローバルなビジネス活動や国境を越えた学問研究などの分野のテキストでは、国際英語のほうがネイティブ英語よりも、はるかに適している。それとは対照的に、文体を非常に重視する文学のテキストについては、国際英語はあまり向いていないといってよいだろう。

これを翻訳の世界に絞って考えれば、国際英語での日英翻訳の作業は、ビジネスや学問のテキストの翻訳の文章には向いているけれども、文学テキストの翻訳の文章には向いていないということである。英語以外の言語の文学の世界を英語で表現するためには、やはりネイティブ英語の力が必要不可欠であろう。また、米国や英国のようにネイティブ英語文化圏の中だけで行うコミュニケーションにおいては、国際英語だけではうまく機能しないのは当然のことである。

国際英語の基準

国際英語という概念が誕生してから、まだそれほどの年月が経っているわけではない。そのため、現時点では国際英語の基準がしっかりと確立されてはいない。一部には、独自の国際英語基準をつくる動きも出てきているが、それが世界のデファクトスタンダードとなっているというわけではない。今後、世界の人々の英語でのコミュニケーションがさらに増えていくなかでデファクトスタンダードとして国際英語が確立されていくだろうが、それまでのあいだは、ネイティブ英語での従来の基準をベースとしながらも、文体や語彙といった文化的部分に修正を加えたものが、暫定的な国際英語基準として用いられていく可能性が高い。

国際英語による日英翻訳

ネイティブ英語支配の英語観のもとでは、日本人が日英翻訳を行うこと自体が、本質的に不可能であると考えられてきた。当たり前ではあるが、日本人はネイティブ英語のネイティブではないからである。したがって、日本人がおこなう日英翻訳は、あくまでも英語ネイティブがおこなう翻訳の代替品にすぎず、さらに厳しくいえば、一種の「まがいもの」でしかなかったわけである。

しかし、国際英語/ネイティブ英語並立の英語観のもとでは、こうした状況が一変する。日本人が国際英語での日英翻訳を行うことは、本質的にみて可能である。なぜなら、英語を国際的な状況で使っている日本人は、ネイティブ英語のネイティブではないものの、国際英語のいわば「ネイティブ」だからである。

もちろん、国際英語のネイティブだからといって、それだけで卓越した国際英語が書けるわけではないのは、ネイティブ英語のネイティブだからといって、それだけで卓越したネイティブ英語が書けるわけではないのと同じことである。ネイティブ英語であれ、国際英語であれ(あるいは日本語であれ)、良い文章を書くということは、それほど簡単なことではない。そしてその簡単ではない良い文章を書くという能力を、日本語と国際英語において有していることが、私たちが日英翻訳を行うための第一の前提である。

社会的要請に応じた国際英語の分類

国際英語は、社会的な要請に準じて、さらに細かく分類することが可能である。たとえば、国際社会といっても学術「社会」とジャーナリズム「社会」とビジネス「社会」とでは、その社会的な特性が大きく違う。そのため、そこで用いられる国際英語の個性もまた、大きく違ってくるのである。

ただし、その基盤となっている部分については、すべての国際社会で共通である。したがって心の翻訳モデルでは、まず基盤となっている部分について考え、その後に、ネイティブ社会を含めた各種社会の個別ニーズについて考えていく。

​☆☆☆

 

英作文の基礎
英作文力なくして翻訳なし

英語が書けなければ英日翻訳もできない

先に、国際英語ネイティブとして卓越した国際英語を書く能力を持っていることが日英翻訳を行うための第一の前提であると述べた。じつは、国際英語ネイティブとして卓越した国際英語を書く能力は、日英翻訳だけではなく、英日翻訳の第一の前提でもある。きちんとした国際英語を書くことのできる力がなければ、よい英日翻訳者となることもできないのである。

しかし、多くの翻訳者や翻訳志望者は、そしておそらく一般の人々も、そうは考えていないようである。たとえ英語を書く力は十分になくとも、きちんと英語が読めて、よい日本語さえ書ければ、英日翻訳ならできると考えているのが普通である。

じつは、私自身がそうであった。それも、翻訳の勉強をはじめた頃だけではなく、プロの翻訳者になってからも、である。私は長いあいだ、英作文の勉強をまともにやってこなかった。日本人がいくら勉強しても、英語ネイティブのような英文は絶対に書けないのだから、それを追い求めるよりは、英語がより深く読めて、よりよい日本語が書けるようになるための訓練を優先しようと考えていたのである。今から考えれば、これは劣等感が生み出した防衛機制・合理化の典型であった。イソップ寓話の「すっぱい葡萄」である。

しかし、翻訳研究を進めていくなかで、私は英語を書く力が、日英翻訳だけでなく英日翻訳にも不可欠の能力であることに、徐々に気づきはじめた。さらには、優れたネイティブ英語は書けなくとも、優れた国際英語であれば、努力をすれば日本人の私にも書ける可能性があることも確信できるようになった。そしてその時になって、はじめて本格的に英作文の勉強に着手したのである。英語の道に足を踏み入れてから、すでに数十年が経っていた。

それにしても、なんという長い回り道だったのだろうか。もし本格的に英語の勉強をはじめようと決心した20歳代前半から英作文の勉強もはじめていれば、私の英語力の向上率は格段に大きかったに違いない。そして翻訳力も、もっと大きく伸びていたはずである。悔やんでも悔やみきれないことであるが、せめてこれを読んでいる読者の方々には、私と同じ轍は踏まないようにしていただきたいと願っている。そして今すぐ英作文の勉強をはじめていただきたい。それこそが、日英だけでなく、英日においても翻訳力を向上させる最良の方法のひとつだからである。

国際英語として書く

すでに説明したように、私たちがどのような英語を書くべきなのかといえば、それはもちろん国際英語である。ネイティブ英語ではない。言葉というものは、自分自身に深く根付いたものであればあるほど、小さな差異に対しても鋭敏になるものである。私は大阪生まれで大阪育ちであり、大阪方言が母語であるために、大阪人ではない人の話す大阪弁「もどき」をきくと、たとえほんの少しのイントネーションの違いにも、非常に苛立つ。これと同様に、英語ネイティブにとってノンネイティブの書く英語には、強い苛立ちを感じさせるものがあるに違いない。その苛立ちは、言語的な感性の鋭い人であればあるほど、非常に激しいものだと考えられる。

しかし、それはネイティブ英語としての話なのであって、国際英語についての話ではないのである。国際英語の世界では、英語ネイティブを苛立たせるような表現があるのが当然だと考えるべきである。ネイティブ英語の感性を私たちのような英語ノンネイティブにも求めること自体、そもそも間違いである。

私たちのような英語ノンネイティブが英語で何かを書く場合には、英語としての基本的なルールをはずしておらず、論理的であり、表現が平明でわかりやすいものであれば、それで十分と考えなければならない。もちろん、ネイティブさえも感心するような流麗なネイティブ英語が書ければ、それはそれで、たいへんに素晴らしいことである。だが、それができないからといって、落ち込む理由など何もない。

忘れてはならないのは、英語ネイティブ以外が英語で何かを他者に伝えるという行為そのものが、世界的な観点からみて、非常に高い価値を持っているということである。国際英語とは、世界の人々のための公共財なのであって、英語ネイティブの私有物なのではない。

それでも、場合によっては、質の高いネイティブ英語がどうしても必要となる状況もあるだろう。そのときには、自分の書いた国際英語をライティング専門家の英語ネイティブに添削してもらうという方法がある。けれども、質の高いネイティブ英語が必要となる機会というのは、実際にはそれほど数多くはないものである。英米との公式文書をつくる、英米向けに英語ニュースを配信するなどといった、非常に特殊なケースに限られるといってよいだろう。通常のビジネスや学問の場などでは、適切な国際英語でつくったテキストであれば、間違いなく十分に機能する。そのことを、私たちは肝に銘じるべきである。

いまの英語教育業界には、「日本人の英語はここが間違っている」「日本人の英語ではネイティブには通用しない」「ネイティブが使う自然な英語を身につけよう」などといった、植民地的なコマーシャリズムが蔓延している。こうした情報に踊らされるのは、たいへんに愚かなことである。

その一方で、「我々は日本人なのだからカタカタ英語で十分である」「和文英訳で何が悪い」などとひらきなおるのも、決して生産的な態度ではないだろう。日本人が英語で文章を書くということの意義と価値を正しく認識し、そのうえで、高度な国際英語の文章力を身につける努力を続けていくことが必要である。

自分が書いた英文の評価基準を持つこと

英語で何かを書く際に最も重要なことは、自分の書いた英文の良し悪しを自分自身で評価できることである。逆に、最もしてはいけないことは、英語ネイティブに評価をすべて委ねてしまうことである。

英語ネイティブによる訂正や意見を無視しろといっているのではない。私たちの書く国際英語には、英語ネイティブの観点からみて、特に文体的に納得できない点が、いくつもあることだろう。あって、当然である。そして、国際英語の世界認識や言語構造はネイティブ英語の世界認識や言語構造をベースにしているのであるから、英語ネイティブとしての意見や訂正は、たとえ国際英語であっても非常に有益であり、国際英語の作文力強化に利用するべきである。

しかし、英語ネイティブとしての意見を参考にすることと、英語ネイティブの意見にすべてを委ねてしまうこととは、本質的に異なる態度である。参考にするということは、自己をさらに高めようとする行為である。反対に、ネイティブに評価を委ねるということは、自己をなくそうとする行為である。

現在の英語力を考えると、自分の英文を自分自身で評価することなど、とてもできない考える人もいることだろう。そんなことはない。国際英語のための客観的かつ具体的な評価基準を用意しておけば、たとえ英語力がどのような水準であっても、自己評価は可能である。問題は、これまでの従来の英語教育では、そうした国際英語に対する客観的で具体的なライティング評価基準を用意してこなかったことにある。本書を通じて示そうとしているのは、そうした国際英語ライティングのための客観的かつ具体的な評価基準である。