「ええい、静まれ、静まれ。この紋所が、目に入らぬか!」

30代以上の日本人なら誰もが知っている水戸黄門の決め文句。英語にすると、どうなるでしょう。 You! Control yourself! Take a good look at this insignia! 「ええい」は、You!。「お前たち!」のニュアンスです。 「静まれ」は、Be quiet.ではだめ。quietは音を出さなくするという「静か」であって、動きをやめるということではありません。刀で切りあっているときに「音を出さないでね」というのは、かなりシュール。Control yourselfを使いました。「自制せよ!」です。 「目に入らぬか」っていわれても、印籠は目になんか入んないですね。ここは「よく注意してみるべし」で、take a good look atを使いました。goodは「よい」ではなく「十分に」。Look at carefullyと同じですが、フォーマルなイメージがあります。紋所は、insignia(記章、勲章、しるし)。a school insigniaは校章。

私たちが英語を学ぶということは、私たちが英語「について知る」ことではない。

英語が蝶々だとしよう。私たちが英語を学ぶということは、私たちが蝶々「について知る」ことではない。私たちが蝶々「になる」ことだ。蝶々になって空を自由に飛びまわることだ。 学校で教えられている英文法は、蝶々「について知る」ための理論である。蝶々の口はどのようなかたちであり、蝶々の目はどのような構造であり、蝶々の羽はどのように動くか、といったことが、そこでは説明されている。 だが、そうした知識をいくら習得したところで、私たち自身が蝶々になれるわけではない。せいぜい蝶々学者になれるぐらいのものだ。蝶々自身になりたいのであれば、蝶々になって自由に空を飛びたいのであれば、学校英文法は役に立たない。 蝶々自身になりたいのであれば、蝶々としての世界の見方を知らねばならない。蝶々としての思考のあり方に慣れなければならない。蝶々としてのからだの動かし方を習得しなければならない。 それらを会得するうえでは、蝶々としての世界の見方や思考のあり方やからだの動かし方のメカニズムをわかりやすく説明してくれる理論があれば、とても役に立つだろう。それが私のいうところの「心の英文法」である。

私の翻訳観

私が提唱している「心の翻訳」モデルでは、「等価」という概念の上位概念として「価値」を置いている。なお「等価」の下位概念としてはさまざまなもの(表現的等価、認識的等価、情報的等価、他)があると想定し、また「価値」の下位概念としてもさまざまなもの(社会的価値、個人的価値、歴史的価値、他)があると想定している。 「心の翻訳」モデルでの最終目標は「新しい、より大きな価値を生み出す」ことにある。「等価」を高めようとすることは、この目標の達成にとって有用なことが多く、したがって「心の翻訳」モデルは「等価」追求を目標とする既存翻訳モデルと対立するものではなく、それを包含するものである。ただし、「等価」を高めようとすることが「心の翻訳」モデルの目標達成にとって有用でないことや有害であるケースも多々あり、その場合には、「心の翻訳」モデルでは「等価」という概念にはこだわらない。これは従来の「翻訳」の概念をはみ出してしまうことを意味する。 言葉における「価値」においては、経済における「マネー」のようなかたちでの一元化は不可能であると「心の翻訳」モデルは規定する(経済「価値」をマネーで一元化することも本来的には不可能である)。したがって、「心の翻訳」モデルが目指すべき「価値」は多種多様なかたちをとり、それが多種多様な訳文を生み出すことにつながる。こうした考え方からして「心の翻訳」の研究は必然的に近代科学的な探究とはならない。

英語読解の『ツボ』について

「心の英文読解」執筆のために以前に書いた原稿をチェックしていたら、10数年前に「英語読解の『ツボ】について」と称して次のような文章を書いていたことが分かりました。内容は次のとおり。英語を読むということに対する私の考え方は現在も基本的に変わっていません。人間って変わらないもんですねえ。 <大前提> 英語を英語としてそのまま読む――英語を読むコツは、これに尽きる。 英語の語彙は英語の語彙のまま理解し、英語の語順は英語の語順のまま理解する。つまり日本語には決して訳さないことが大前提だ。 そして英語の発音は英語の発音のまま理解する。つまりカタカナ読みは決してしないということだ。 こうしたことができなければ、本当に意味で英語を読んだことにはならない。 だが言うは易く、行うは難し。こうした英語の読みは、そんなに簡単にはできやしない。ではそのためには、どうすればよいのか。以下、いくつかのツボを提示する。 <ツボ1> 英文を読むうえでの第1のツボは、センテンスのなかからSubject(主語)とPredicative Verb(述語動詞)を見つけ出すこと。SubjectとPredicative Verbさえ見つかれば、あとの要素は勝手に見つかっていくものである。 <ツボ2> ところが、ややこしい英文になると、SubjectとPredicativeがカンタンには見つからなくなる。なぜなら、修飾語句というやつがSubject,Predicative Verb, Objectなどのまわりのどこにでも見境なく出現し、さらにはそのかたちがSubjectなどと変わらないことが多いからである。こ

「心の英文解釈」の執筆に、着手!

「心のシリーズ」と名付けている翻訳・英語・日本語関連のテキストシリーズを書き続けてきたが、その最後のテキストとなるべき「心の英文解釈」に、着手! ついに、最後のテキストかあ。やっと頂上の見えるところまできた、という感じだ。 私の目標は、日本語人が日本語人としての人格と矜持を保ちつつ、日本語の世界と(ネイティブ英語を含む)国際英語の世界とを自由に往来できるようになるための、理念・理論・技法・学習方法のすべてをひとつの体系として完成させることにある。 その志を立ててから30年ほどが経ったが、ようやく少し先が見えてきた。できることならば、今後数年のうちに最初のシリーズ作品を世に送り出せればよいなあ、などと思っている。

先生稼業は「世のため」「人のため」になんぞ、やっちゃいけない。

『日経ビジネス』誌の記事の中の名文句。「部下はね、忘れるんだよ」 「でも、Aさんは部下を育てて、部下もすごく慕っていたので、きっと彼らの『心に残る上司』になっていくんでしょうね」と、私がボソッと言ったところ、「その時は、ね」とボソッと(あるエラい人が)言い返した。「へっ? その時とは????」と突っ込んだところ、次のようにおっしゃった。「部下はね、その時は感謝するかもしれない。でもね、やがて忘れるんだよ。せいぜい何十年か後に訃報を聞いて葬式に出るくらいかな(笑)」 人間とは、こういうもの。長年、先生稼業をしていると(あるいは、わが身を振り返ると)身に沁みて、よく分かる。 だからこそ、先生稼業は「世のため」「人のため」になんぞ、やっちゃいけない。先生なんてものは、あくまでも「教えた人が伸びると、自分が楽しい」から、やるもんです。

「“英会話”は二の次でいい。本当に大事なのは“英作文力”」という記事を発見!

『東洋経済』誌の記者の佐々木紀彦さんという人が、ネットに次のような論評をしているのを見つけた。まさに、その通り。こうした意見が、もっと広範に発信されるようになると、日本語の英語教育も変わるかみもしれない。以下、引用です。 《若手記者・スタンフォード留学記 16》“英会話”は二の次でいい。本当に大事なのは“英作文力” http://toyokeizai.net/articles/-/2515?page=2 私がもし、中学・高校の英語教育を変えられるとすれば、英会話よりも英作文の比重を高めます。英語教育の優先順位は「読む→書く→聞く→話す」であるべきだと思うのです。 第1に、英作文というのは、数学のように、じっくりと机に座って、集中的な勉強が必要です。その意味では、勉強時間がふんだんにあり、体力もある、中学・高校時代が望ましい。一方、英会話を若いころに学ぶと、将来修正できない発音の癖がつく可能性大です。へんな癖をつけるくらいなら、むしろ白紙のままにして、英会話を勉強したい人は、自分で現地に留学すればいい。英作文の添削くらいであれば、インターネットでインド在住のインド人にお願いすれば、結構安く上がるはずです。 第2に、英語を書けるということは、自分の言いたいことを頭で描く力があることになります。あとは発音にさえ気をつければ、しゃべるのは簡単ではないでしょうか。話し言葉で論文やビジネスの書類を書くことはできませんが、書き言葉で話すのは、堅くてぎこちなく感じられても、意思疎通はできますし、無礼ではありません。 第3に、英作文は、日常会話的な英会話と違い、知的に楽しめます。英語は、種々の単

日本語人が日本語人としての人格と矜持を保ちつつ、日本語の世界と(ネイティブ英語を含む)世界英語の世界とを自由に往来できるようになるために

私の目標は、日本語人が日本語人としての人格と矜持を保ちつつ、日本語の世界と(ネイティブ英語を含む)世界英語の世界とを自由に往来できるようになるための、理念・理論・技法・学習方法のすべてを、ひとつの体系として完成させることである。志を立ててから30年以上が経ったが、ようやく、少し先が見えてきた。できることならば、今後数年のうちに、最初の作品を世に送り出せればと思っている。 その目標に向けて、私がこれまでまとめたテキストとしては、「心の翻訳」「心の英文法」「心の日本語文法」があり、その入門版テキストとして「心の英作文」「心の日本語作文」がある。すべて初校レベルでは完成しており、現在は、それらの演習編と学習カリキュラムを制作中である。

翻訳とは人間の探求であり、社会の探求である。

「翻訳者、通訳者、外交官などは英語を勉強しなきゃいけないと思います。そういう人たちって何%ぐらいでしょうか。1%ぐらい? だとすると、99%の人は中学校や高校で英語を勉強しなくてもいいじゃないかと思うんです。今や小学校でも英語を勉強することになっていますが、自動翻訳機で代替できるという意味ではその必要はないのではないか」(自動翻訳の専門家である隅田英一郎)。 こういうことを平気でいえる人たちは、「翻訳」という営みを根底から誤解している。さらにいえば、それを理解できるだけの真の「知性」が欠けている。 本当の意味での翻訳とは、言葉と言葉とをつなぐことではない。それは、人間の心と心とをつなぐことであり、社会と社会とをつなぐことである。 すなわち、翻訳とは人間の探求であり、社会の探求なのである。ゆえに翻訳を学ぶことは、すなわち人間を学ぶことであり、社会を学ぶことである。そしてそれは、人間として社会人として成長するためのきわめて貴重な手段である。 ゆえに、本当の意味での翻訳と(そのベースとなる)英語学習は「自動翻訳機で代替できる」ような存在では決してない。そしてそのことは、隈田氏のいうところの「1%の人々」にとってだけではなく、よりよく生きようとする「すべての人々」にとってである。

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