人間による翻訳が20年後にも残るために必要なこと

言葉と言葉とをつなぐことが翻訳だという現在の社会常識を根底からくつがえし、英語と日本語とは言葉としては翻訳ができない、できるのは人間の日本語の心と英語の心とをつなぐことだけだという新たな常識を社会全体に広く共有させることができなければ、人間による翻訳が20年後にも残ることはほぼ不可能だろう。 だが、この事実を本当に深く認識できている人間は、翻訳関係者の中にもほとんどいない。

「翻訳者のための日本語文法」コースのお知らせ

3月17日(土)・24日(土)の13:00-17:30にサイマル・アカデミーにて「翻訳者のための日本語文法」というタイトルで計8時間の短期コースを開講する予定です。翻訳者のための日本語文法として、初めてのコース開講になります。 ただ「文法」とはいっても言語の体系化を目指すオーソドックスなものとは本質的に違うものであり、日英・英日翻訳をするうえで必要な知識や技法の解説・演習が主なコース内容になります。テキストは私の完全オリジナル(「心の日本語文法 演習編」)で、その サンプルが成瀬塾サイトの「教材・資料・他」の「サンプル原稿PDF」ページにアップしてありますのでご覧ください。 https://www.narusejuku.com/pdf プロ翻訳者の方やプロ翻訳者を目指している方々だけでなく日本語にご興味のある方にとって他にはない日本語「文法」学習の機会にしたいと講師としては非常に張り切っているのですが、なかなか生徒さんが思うようには集まっていないようです...。皆さんお忙しいとは思いますが、もしご興味があれば、いちど以下のサイトをのぞいてみてください。よろしくお願いします。 https://www.simulacademy.com/schedule/ent02_details2.html

アマゾンのkindleパブリッシングで『日本語で考えて、英語で書こう―心の英作文入門』を出版しました。

アマゾンのkindleパブリッシングで『日本語で考えて、英語で書こう―心の英作文入門』を出版しました。日本語人の視点に立ったうえでの合理的・効率的な英作文の理論・手法のエッセンスを40ページほどで簡潔にまとめました。価格は200円。kindle unlimitedが使えるならば無料です。ぜひお読みください。 アクセスはこちら↓ https://www.amazon.co.jp/dp/B079FX76ZW/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1517362471&sr=8-1&keywords=%E6%88%90%E7%80%AC%E7%94%B1%E7%B4%80%E9%9B%84

鳥飼玖美子さんの『『英語教育の危機』のご紹介

この前にご紹介した沼野充義さんの毎日新聞の書評のご紹介に対しては、私にとって予想外といえるほどの嬉しい反応がいくつかあった。それに気を良くして、今回はその書評で紹介されている鳥飼玖美子さんの『『英語教育の危機』の「まえがき」の一部分を、以下にご紹介する。 ☆☆☆ まえがき 英語教育改悪がここまで来てしまったら、どうしようもない。もう英語教育について書くのはやめよう、と本気で思った。それなのに書いたのが本書である。 英語教育についての書を何冊も刊行し、あちこちの講演で語ってきて、もうやめよう、と思うようになったのは、英語についての思い込みの岩盤は突き崩せないと悟り、諦めの境地に達したからである。 どんなに頑張って書いても話しても、人々の思い込みは強固である。曰く「グローバル時代だから英語を使えなければ」「でも日本人は、英語の読み書きは出来ても話せない」「文法訳読ばかりやっている学校が悪い」「だから、英語教育は会話中心に変えなければ」という信条を多くの人たちが共有している。 そうではない、英語をコミュニケーションに使うというのは、会話ができれば良いというものではない、しかも今の学校は、文法訳読重視ではなく会話重視で、だからこそ読み書きの力が衰えて英語力が下がっている、といくら説明しても、岩盤のような思い込みは揺るがない。政界、財界、マスコミ、そして一般世論は、ビクともしない。 結果として的外れの英語教育改革が繰り返され、行き着いた先は、教える人材の確保も不十分なまま見切り発車する小学校での英語教育であり、大学入試改革と称する民間英語試験の導入である。ここまで来てしまったら打つ手はな

勝つ(よい文章を創る)には確たるプレー(文章)モデルや細部まで行き届いた戦術的コンセプトが絶対に必要

今日(2018.1.23)の日経新聞35面の「スポートピア」でサッカー元日本代表の戸田和幸がエッセイを書いているが、その内容が非常に面白い。たとえば次のようなものだ。 「(サッカーは)見かけ上は11人が1個のボールでゴールを奪い合う単純な競技だが、勝つには確たるプレーモデルや細部まで行き届いた戦術的コンセプトが絶対に必要。そう気づいてから選手の道を追求しながら、指し手のように盤上全体に関心が向かうようになった。 国が変わればサッカーは変わる。選手の位置をちょっと変えるだけでも変わる。その正否を決める上で指導者の役割は想像以上に大きい。現場で芝生の匂いを嗅ぎながらサッカーを創る側に回る。そんな夢をずっと温めている。 解説業は伝達能力を上げるためにやっているところもある。感覚的なもの、複雑なことを視聴者に言語化して「解いて説く」ことができたら、指導者として自分の言葉を持つことにもつながると。」 戸田がサッカーの世界に対して述べていることは英語や翻訳の世界に対してほぼ完全に応用できる。たとえば次のようなコメントが興味深い。「勝つ(よい文章を創る)には確たるプレー(文章)モデルや細部まで行き届いた戦術的コンセプトが絶対に必要。」「国(言語)が変わればサッカー(文章の創り方)は変わる。(←翻訳論の原点)」「その正否を決める上で指導者の役割は想像以上に大きい。(そのとおり)」 ほかにも「相手ボールを奪取するのは周りの仲間を声で動かしつつ、狙い所にボールを誘導する極めて理詰めの作業。」というコメントは印象的だ。サッカーが「極めて理詰めの作業」であると同様に文章づくりもまた極めて理詰めな作業で

知識人、カネと力はなかりけり。

沼野充義、鳥飼玖美子、阿部公彦、大津由紀雄といった言語研究・実践領域での数多くの「本物の知性」たちが口をそろえて現在の英語教育の方向性を「国難」だと断じている。にもかかわらず、事態は間違いなく更に悪い方向へと着々と進んでいる。 私も、現在の英語教育のあり方は間違いなく国難だと思う。このままだと沼野さんのいうとおり「英語がペラペラになる前に日本語が滅びる」ことだろう。 そこで、本物の知性を持つ皆さんは、こうした世の中の流れをなんとかして止められないかとお考えのようだが、私はそれは無理だと思う。残念ながら「本物の知性」には、民衆が主導する世の中の大きな流れを変えられるほどの力はない。知識人、カネと力はなかりけり。 ただ、世の中の大きな流れは変えられないにしても、その流れから身を避けて小さな流れをほそぼそと維持しておくことは、カネも力もない知性の人でも可能だと私は信じる。というか、信じたい。そしてそれができるのは、大学などの公教育の場ではなく、私塾なのだと考える。 ということで、沼野さん、鳥飼さん、阿部さん、大津さん、ぜひぜひ私塾をひらいてください。

日本の英語教育は「国難」

スラヴ文学者で東大教授の沼野充義が、毎日新聞の書評欄で『史上最悪の英語政策-ウソだらけの「4技能」看板』(阿部公彦)と『英語教育の危機』(鳥飼玖美子)を取り上げて、現在の日本の英語教育の現状を「国難」と断じている。論評の出だしは次のとおり。 「国難である。原発のことでもなければ、北朝鮮のことでもない。英語教育の問題だ。ある国の繁栄も強さも、長い目で見ればその土台となるのは、次の世代の教育である。それがいま大変なことになっている。」 つづいて問題の背景と取り上げた2冊の内容を説明したのちに、沼野は自分の意見を次のように述べる。 「最後に一言、評者の個人的な考えを付け加えておくと、「ペラペラ信仰」などそろそろ捨てるべきではないか。英語教育改革の議論で乱発される「コミュニケーション」という言葉もあまりに空疎。人間どうし、特に立場が異なる人の間や異文化間のコミュニケーションというのは、英語で「買い物ごっこ」ができる、といった次元のことではない。 そもそも、どうしてスピーキングを大学入試でテストしなければならないのか?高校までに学ぶべきもっと大事なことはないのだろうか?英語ばかりに力を注げば、当然、他の教科が手薄になるだろう。日本語できちんと他者と話し合い、理解し合う能力と、そのために必要な人間としての教養を身につけさせるのが先ではないか?いまの政治家たちを見ているとつくづくそう思う。このままでは、英語がペラペラになる前に、日本語が滅びますよ! それに、どうして英語だけなのか?中国語や韓国語やロシア語ができる人材の養成にも少しは力を入れないと、国益を損なうのではないか?」 私は以前か

求む!国際英語専門の日英翻訳エージェント!

実務翻訳者・翻訳研究者として私がずっと待ち焦がれていることがあります。それは国際英語専門の日英翻訳エージェントの出現です。 そのエージェントでは、英語ネイティブではなく、専門知識と国際英語ライティング力と翻訳技能とを合わせ持つ日本語人が翻訳を担当します。訳文のチェック・レビュー作業については想定読者、すなわちさまざまな文化や言語背景を持つ世界中の非英語ネイティブがおこないます。このようにして高い価値を持つ国際英語翻訳サービスをリーゾナブルなかたちでお客様に提供すること。それが私の考える国際英語専門の日英翻訳エージェントのビジネスミッションです。 旧来の日英翻訳エージェントのビジネスミッションは「英語ネイティブに通用する英語を提供すること」です。そのもとに「日英翻訳者は英語ネイティブのみ」「すべての訳文にはネイティブチェックが入っています」といった宣伝文句が頻繁に使われます。これは日本人の英語ネイティブ崇拝メンタリティにつけこむコンプレックスビジネスの典型です。 こうした愚劣なビジネスモデルにつきあうつもりはないので、これまでは日英翻訳ビジネスの世界にはできるかぎり近寄らないでいました。しかし小学校での英会話導入に見られるように現在の日本社会はこれまで以上に英語植民地化の動きが加速しており、またそれに反発するかたちでの国粋的メンタリティも一部日本人の中で徐々に高まっているように見えます。いずれも日本社会にとって非常に危険な兆候です。 こうした状況を打破できるのが国際英語人としての新たなタイプの日本人の登場ではないかと考えます。そしてそれを翻訳の面からサポートできるのが国際英語専門

山岡洋一さんの『翻訳通信』のサイト

2010年に亡くなった実務翻訳者・翻訳研究者の山岡洋一さんの『翻訳通信』のサイト(http://www.honyaku-tsushin.net/)をご紹介します。山岡さんのつくられた翻訳に関する膨大かつ卓越した考察・研究の成果がこのようなかたちで残されているのは、日本の翻訳にとってかけがえのない宝だといってよいでしょう。 にもかかわらず、翻訳関係者のあいだで最近このサイトがあまり取り上げられなくなったことを、日本の翻訳の退歩の兆候として非常に危惧しています。翻訳者・翻訳研究者そして翻訳会社・翻訳学校の関係者の皆さんには、ぜひともこのサイトに頻繁にアクセスしていただきたいと願っています。 ちなみに私は山岡さんの関係者ではありません。山岡さんの翻訳研究についてはリスペクトはしているものの自分の翻訳研究の方向性とは異なるものであることもお断りしておきます

したたかな実利主義の効用

英作文/日英翻訳を学ぶ日本語人学習者の心の中には「英語ネイティブの自然な表現」をマスターしたいという欲求(というか願望というか)が根深く潜んでいるように見える。 ところが中国人やインド人などの書いた英語を読んでいると、日本語人のように英語ネイティブ崇拝という心理をあまり感じない。それよりも、自分のいいたいことを英文で発表することで自分の社会的経済的価値を少しでも上げようとする実利的意識を強く感じる。もちろんそのためには英文としての規則を厳守し表現も洗練させなければならないのだが、それは「英語ネイティブの自然さをマスター」するためなのではなく、それをすることで自分の利益になるからである。 こうした、したたかな実利主義は、日本語人も大いに見習うべきではないかと、最近は感じている。

「図太いメンタリティ」が、イカロス出版の持ち味

「実際に翻訳の仕事を始めたら、英訳の場合、読者は外国人です。ネイティブが読んで違和感のない自然な英文が書けるようになりたいですね」 これは、ILC国際語学センターの日英翻訳コースに通う受講生のコメントです。イカロス出版の「通訳翻訳WEB」の中にあります。(http://tsuhon.jp/sangyou_ilc) 矛盾に気づきましたか? そう、「英訳の場合、読者は外国人です。」→「ネイティブが読んで違和感のない・・・」のところですね。これでは「外国人」イコール「英語ネイティブ」、つまりアジアの人々や欧州の人々や南アメリカの人々は「外国人」じゃない、ということになります。 平気でこうした愚かなコメントを誌面に載せてしまう「図太いメンタリティ」が、このイカロス出版の持ち味なのでしょうね。

求む!ビジネスパートナー!

研究者バカは誰もがそうなのだろうが、私もまた、自分が積み重ねてきた研究成果を、本やその他のかたちにしてぜひとも世の中に送り出したいと常に願っている。特に私のように社会ニーズとダイレクトにつながっている領域(翻訳・英語・日本語)では、自分の研究成果をみんなに有効に使ってもらってナンボ、という側面が非常に強い。 だから、「心の翻訳」その他の自分の研究成果を出版すること、オンラインで展開することは、ぜひぜひ実現したいところである。そして、それをぜひビジネスにもつなげたい。自分が一生をかけて打ち込んできた仕事で自分の食い扶持が稼げるのなら、こんなに嬉しいことはない。 だが、これがなかなかうまく運ばない。 特に本としての出版計画は過去10年に数度チャレンジしてことごとく失敗している。2、3の出版社に持っていったが、どこも内容のことにはほとんど言及せず、出版費用のことばかりいってくる。ちなみに1冊出版するには数百万円の費用を負担してほしいとのことだった。そんなお金、ありません。 私がいま本当に出会いたいのは、ビジネス展開のパートナーだ。私の翻訳・言語の研究の内容と価値とを正しく理解評価してくれたうえで、それを適確にマネタイズすることのできる人である。どうやらそうした人は、既存の出版社にいなさそうである(本当は、いてほしいんだが)。では、どこにいるのか。それが、どうもわからん。ということで、「求む!ビジネスパートナー!」なのである。

書ければ読める、書ければ話せる

前の投稿で、私は自分が伊藤和夫の衣鉢を継ぐ者のひとりであると述べた。伊藤のような知の巨人に巡り合えたことを、私はたいへんに幸運だったと感じている。知的な英語教育が落ちるところまで落ちた現在の状況下で、伊藤が残してくれた比類のない研究成果が再び脚光を浴びる日がやってくることを痛切に願っている。 ただ、私が目指している目標は伊藤が目指した目標とは異なるものである。伊藤が目指したのは日本語人の知的英語の読解能力の改善であった。伊藤は「直読直解」のみが真の英語読解の姿であると喝破し、そこに行き着くための具体的な理論と技法と実践手法を見事に作りだした。それは、それまでの英語教育者が誰ひとりとして達成できなかった偉業だった。 このように伊藤は日本語人が英語を「読む」という領域において偉業を達成したのだが、その一方で日本語人が英語を「書く」という領域には伊藤は踏み込まなかった。具体的にいえば英文解釈は指導しても英作文は指導しなかったのである。このことについて伊藤は自分自身では言及していない。ネイティブにつまらぬイチャモンをつけられるのが嫌だったなどと書いてはいるが、もちろんそれだけが原因ではないだろう。 伊藤が踏み込まなかった「英語を書く」という領域において私は「日本語人が日本語人としての最良の英語を書く」という目標を設定し、そこに行き着くための理論、技法、実践方法を作り出したいと考えている。そうした目標を立てた理由は、次の2つにある。 第1に、時代が英作文教育を求めているからである。伊藤の時代とは異なり、現在の日本は世界からの情報受信だけではなく(あるいはそれ以上に)日本からの情報発信が極

「心の翻訳」モデルとは何か

私が考案した「心の翻訳」モデルの概要は以下のとおり。 〇「心の翻訳」は翻訳のパラダイムシフト。言葉ではなく心の働きを翻訳する。ブラックボックスだった英日・日英翻訳のメカニズムを「思考」の観点から総合的に解明 〇翻訳要素を「社会的要請」「個人的要請」「思考(理知)」「情報構造」「情意」「文体」「創発」の7つの要素に分割してそれを統合化 〇基盤となる言語理論は「心の英文法」「心の日本語文法」 〇概念ツールとして「思考の基本単位」「動的理解」「SPM分析」「思考のまとまり」「構造図」などを利用 〇理論だけではなく翻訳技法、例題・解説をすべてカバー 〇対象は英語世界と日本語世界を往来する必要のあるすべての日本人。具体的には翻訳者、翻訳学習者、英語学習者、日本語学習者。 これだけじゃさっぱりわからない、との声があちこちからとんできそうだが、その声に応えるために懇切丁寧なテキストや演習問題集も用意した。全部で1000ページ以上あります(ありすぎ?)。 さて準備は万端、あとは生徒さんがやってくるのを待つだけなんだが、これがなかなか、こないんだよなあ・・・。基本的に宣伝が足りないことぐらいはわかってるけれど、具体的にどうすればよいのかが、よくわからん。自分でいうのもなんだが、研究者バカは、これだから困る。

伊藤和夫の衣鉢を継ぐ者として

前の投稿(本のご紹介:伊藤和夫の『予備校の英語』)のなかで、伊藤和夫のコメント「予備校というホンネの世界を舞台に行なわれた数多くの実験は、有形の結果を残さぬままその幕を閉じようとしていますが、受験英語の消滅によって空くことになる巨大な空白を埋めるものは何でしょうか。」とを紹介したが、読者のなかには「では、いまの受験予備校の英語教育はどうなっているのか」という疑問を抱かれた方もいるかもしれない。 答えは簡単であり、現在の予備校の英語教育は伊藤和夫の時代とはまったく比較にならない価値の低いものである。伊藤たちの実験から生み出された貴重な成果は(竹岡広信のような弟子筋を除いて)結局のところ、ほとんど何も継承されなかった。その結果、日本の知的英語教育をウラから支えていた予備校英語は根底から崩壊してしまった。 その理由としては、大学の英語そのものが知的な側面をみずから放棄してしまったことが最も大きい。もともと大学英語は伊藤のいうように無力でひ弱な存在だったのだが、過去20年の社会の変化に合わせて彼らが選んだ道は、なんと自己放棄だった。大学入試にTOEICや英検を利用する(丸投げする)という最近の動きは、その自己放棄の発現の一例である。現在の大学の英語教師は自分の基準と判断で学生を選ぶという教師としての最低限の矜持さえも失ってしまったのである。もはや再生はあり得ないだろう。予備校英語もそうした大学英語の在り方からの影響を受けざるを得ない。つまり知的英語として価値を下げざるを得ないのである。 そのほかにも、伊藤たちの遺産を継承するだけの知的能力がその後の予備校英語教師にはなかったことや、生徒

本のご紹介:伊藤和夫の『予備校の英語』

駿台予備校講師であった伊藤和夫(1927-1997)は、「入試英語のバイブル」と呼ばれた「英文解釈教室』の著者であり、日本が輩出した最良の英語教育者・英語研究者の一人です。私のなかでは言語研究において時枝誠記、渡辺実、三上章、柳父章などと並び立つ巨峰でもあります。 今回ご紹介するのは、その伊藤が書いた『予備校の英語』という隠れた名著です。1997年が初版ですから20年以上も前に発刊されたものですが、その内容はまったく古びていません。じつは、このことが現在の日本の英語教育の悲惨さを物語っているのですが。 以下に、ほんの一節だけを抜粋してご紹介します。この部分の最後に伊藤は「受験英語の消滅によって空くことになる巨大な空白を埋めるものは何でしょうか」と書いていますが、この空白は、結局のところ、この20年のあいだ何も埋まっておりません。 「日本の英語教育は、戦後ずっと、「読み、書き、話すの、三能力の発達」とか「コミュニケーションの重視」とかいうお題目があるだけで、具体的な方法は皆無の、きれいごとに終始しているオモテの英語と、何としても大学に入りたいという願望だけに支えられた、実利的で泥くさい、受験のためのウラの英語という二重構造を持ってきました。無力でひ弱な公認の英語と、日本人の英語力をともあれ支えてきたのに批難され続けてきたウラの英語の対立だったわけです。オモテの英語は十年一日、戦後半世紀たっても変化があまり見られないのは、お題目がサッパリ変わらず、議論がいつも同じところを、つまり、受験英語のために日本の英語はよくならないという避難を、出発点にしていることでもわかります。(略) 変化

山岡洋一さんの座談会

お亡くなりになった翻訳者/翻訳研究者、山岡洋一さんの座談会のサイトがまだ残っていたので、以下にその一部をご紹介します。なおサイトのURLは、http://www.kato.gr.jp/yamaoka2.htm です。 ☆☆☆ 最近は、インターネットで自分のサイトを公開している翻訳者がけっこういますが、そういうサイトを見ていると、なんだか嫌だなと思うことが多いんです。翻訳学習者向けに学習情報を載せたり、トライアルに合格するコツを紹介したりして、翻訳家になりたい人を集めているようなサイトです。 翻訳に限らず、世の中全体的にいえるんだけれど、どうも下に合わせるようとするところがあるでしょう。合わせるならまだしも、下に媚びを売るような傾向がものすごく強くて、それが嫌なんです。 ☆☆☆ 下に売ろうとする。下に媚びようとする。それでものがよく売れると思っている理由が、どうもよくわかりません。買う方も買う方だと思うけれど。そういう商品じゃないと売れないと思っているのはどうしてなんでしょう。そうではなくて、これはすごいよね、という方向に持っていかないと面白くないと思うんです。 ☆☆☆ 翻訳についていうと、翻訳学校にそういう嫌らしさがある。翻訳学校に通う翻訳学習者には、翻訳なんかできるはずのない人が多い。幻想を持たされて、本人達がかわいそうだと思うのですが…。どうせ一人前の翻訳者にはなれないのだから、やめておきなさいって言いたくなります。 ☆☆☆ 翻訳のパラダイムがおかしくなった。以前は、理想像がもっとしっかりしていたと思います。 翻訳者というのは、読者の代表です。読者を代表して原著を読み、日本

文章において1つの言葉から2つ目の言葉が展開し、さらに3つ目以降の言葉がそこに新たな光をもたらす・・・

エリオット・カーターという米国人作曲家(1908~2012)に関するテキストが日経新聞に出た。一人の物書きとしてカーターの音楽をぜひ聴いてみたくなった。一部抜粋して紹介する。 (2018.1.10日経36面「カーター85年の作曲人生」(朝川万理)より) カーターは10代後半で作曲を始め、ハーバード大学では英文学を学んだ。私が彼に共感した理由の1つに「フロー・オブ・ミュージック(流れの音楽)」という考え方がある。文章において1つの言葉から2つ目の言葉が展開し、さらに3つ目以降の言葉がそこに新たな光をもたらすのと似たイメージで、文学や思想にも造詣が深かったカーターらしい。

私も予備校教師も同じ「英語の先生」?

先日成瀬塾の体験レッスンを受けにきた人がいた。だが彼女との会話がどうもかみ合わなかった。彼女はしきりに英作文の優良テキストとしてある予備校講師が書いたものを話題に出し、それと私の話とを比較しようとする。私の方はそのたびに私の話とその予備校教師のテキストとは比較対象となるものではないとコメントするのだが、彼女としてはどうもそこのところがよくわからないようだった。 間違わないでもらいたいが私は予備校の英語の先生たちのことをとてもリスペクトしている。自分には真似のできない教育技術を有しているプロフェッショナルだと思っている。だが彼らが専門家として持っている技能と私が専門家として持っている技能とはまったく異なるものである。 予備校の英語の先生たちの目標は(当たり前だが)受験生を希望する大学に受からせることにある。一方、私が目指しているのは、日本語人が日本語人として英語の世界と日本語の世界を自由に往来できるようになるための理論モデル・実践技法・訓練プログラムを開発・実践することである。それぞれの目標が本質的に異なるのだから当然ながらそれぞれのテキストはまったく異なるアプローチのものとなり、それらは比較できない。 ところが彼女のなかでは私も予備校の教師も同じ「英語の先生」なのである。従って彼女としては私のコメントと予備校の先生が書いていることの比較は可能である。更にいえばそのどちらかが正解でありどちらかが間違い、ということになるようだ。そして彼女はその「正解」について確認したがっているように私には見えた。 おそらく彼女が私の生徒になることはないだろうが、それはそれでよいとして、この後にも彼

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