成瀬塾通信 no.5

AI翻訳は「翻訳もどき」

 

今年はじめから私は日本の翻訳業界に対して積極的に発信をすることに決めました。というのは、現在の翻訳のあり方にたいへんに大きな危機感を持っているからです。これまで40年近く翻訳業界の身をおいていますが、これほどまでの大きな変革期、それもマイナス方向への変革期を迎えたのは初めてのことです。このままでいくと、AI翻訳という名の「翻訳もどき」が世の中に蔓延して、本物の翻訳が死滅してしまいます。

 

とにかく、なんとしてもこの逆風にあらがわねばならないと、心に決めました。余計な発言をすることで翻訳者としてのビジネスがなくなる可能性もあります。けれども、そうやって討死をしても何もしないよりはましだと、腹を括りました。

 

ビジネス翻訳者にとってAI翻訳というのは、これまでの常識がまったく通用しない、本当に強大なライバルです。そのことは、誰よりもよくわかっているつもりです。しかしそれでも、人間翻訳者がおこなう「心の翻訳」が生き残る道が必ずあると信じています。

 

AIには心がありません。だから心と心をつなぐことはできません。AIができることは言葉と言葉、情報と情報をつなぐことだけです。それは、翻訳ではありません。翻訳もどきです。

 

言葉ではなく、人間の心と心をつなぐことが、本当の翻訳です。そしてその本当の翻訳行為が、私たちたちのあいだで日々行われることが、社会にとって、日本にとって、人間にとって大きな価値を生むと確信しています。

 

サイマル・アカデミー翻訳者養成クラスの講師となってから4年たった2006年の秋、私は「翻訳講座事始」というエッセイ集をクラス受講生のためにつくりました。そのなかのひとつに「産業翻訳者」というタイトルのエッセイがあります。いまから12年前に書いたものですが、私の考え方は何も変わっていません。

 

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10.産業翻訳者

 

翻訳講座事始9「キャリアプラン」のなかで私は「これからの翻訳者はその大多数が翻訳『労働者』になっていくはずである」と書いた。産業翻訳業界と翻訳者の将来については、受講生の皆さんも大いに関心があるだろうから、ここで少し詳しく述べておきたい。

 

産業翻訳が本格的にビジネスとして成立するようになったのは、おそらく日本経済が国際化をはじめた1960年代ぐらいからだろう。産業の国際化につれて各分野の契約書、マニュアル、レポートといった資料を翻訳するニーズが急速に大きくなった。それ以前はおそらく翻訳会社を通じてというよりは個人レベルでそうした翻訳がなされていたのではないか。当初は製造業分野の翻訳ニーズが大きかったようである。私の場合も翻訳をはじめた25年ほど前は、翻訳内容も機械関連のレポートなどが多かったように思う。原稿はもちろんすべて手書きである。肩こりと腱鞘炎が翻訳者にはつきものであった。

 

80年代になると情報技術(IT)関連の翻訳ニーズがどっと出てきた。またこの時期にはPRやIRが日本でも認知されるようになったことで企業情報関連の翻訳も増えてきた。納品形態も手書き原稿からワープロ原稿へと移行していった。私の場合もコンピュータや財務の勉強に励みながらワープロで原稿をつくり、それを紙かあるいはフロッピーで納品を行っていたものだ。インターネットはまだ普及しておらず、先進的な翻訳会社ではパソコン通信を利用していた(なつかしいなあ)。

 

90年代に入ると金融分野が急速に伸びてきた(ようするに日本より英米のほうが競争力が強い産業分野に英日翻訳は大量発生する。水と同様に翻訳も高きから低きへと流れる)。90年代中盤になるとインターネットが普及し、納品もほぼすべてインターネット経由になった。

 

そして現在(注:2006年)であるが、IT、金融、医薬品が産業翻訳ニーズが高い分野であるといわれている。だからといって自動車や精密機器といった他の領域に翻訳ニーズがないというわけではない。どの分野にも量の差はあれ翻訳ニーズというものが存在するので安心してほしい。ただ翻訳をするということは、それがなんらかのビジネスメリットに結びつかなければならないので、その可能性が小さい場合には会社が内部処理してしまうケースも多い。

 

なお翻訳者駆逐の「最終兵器」である翻訳ソフトは1970年代から今にいたるまで営々とその開発が進められているが、まだ実用レベルには達していないことは皆さんご承知のとおりである。80年代には機械翻訳を売りにする翻訳会社も出てきたが、失敗に終わっている。翻訳ソフトを使ったとしても結局のところ人間の手による事前チェックと事後チェックが必要なために、コストが安くならないうえに品質は上がらないという結果に陥いる。以前のことだが米国産の翻訳ソフトを販売している会社から私に翻訳の依頼がきたことがあった。「失礼ですが、御社の製品をお使いになればいかがですか」「そんなことをしたら、まともに読めません」という会話であった。今後も翻訳ソフトが人間翻訳者を駆逐することはないだろう。(成瀬注:12年後の現在、この予想が外れつつあります)

 

とすれば人間翻訳者はこれからも安泰かといえば、ところがそれがそうではない。思わぬ方向からテキはやってきた。それが翻訳支援ソフトである。翻訳支援ソフトとは、ようするに「訳文使いまわし管理システム」のことだ。以前につくった訳文を徹底的に再利用することでコスト管理と品質管理を向上させることをその目標とする。もともと米国でソフトウェアのプログラミング開発の効率化のために用いられていたのだが、それを翻訳に応用したものである。コンピュータ言語で有効ならば人間の言語でも有効だろうという考え方だ。いかにも米国らしい発想ではないか。

 

現在、コンピュータマニュアルの翻訳については、ほぼすべてTradosという翻訳支援ソフトが用いられている。Tradosの使い方に習熟していないかぎりマニュアル翻訳という仕事はもはや不可能といって過言ではない。逆にTradosの使い方に習熟していれば翻訳力のほうはそれほど必要がない。

 

当然のことだが、こうした翻訳者に対して支払われる翻訳料はかぎりなく安い。彼らはコンピュータの前に座り、ただもくもくと一日に4万字、5万字を「処理」していく。翻訳者という名はついているが、じつは情報処置ビジネスの最末端に位置する請負ワーカーたちである。私がこうした翻訳者を新知識社会の底辺に位置する労働者だという理由がここにある。本当に「翻訳者哀史」が書けそうだ。

 

いまのところこうした翻訳のあり方はマニュアルの世界にとどまっているが、考えてみれば訳文の「使いまわし」管理であればマニュアル以外の翻訳ジョブにも十分に活用できる。たとえば契約書や会計文書などは定型文がきわめて多い。であればTradosを使ってコストと品質を効率よく管理できないかと考えるのは当然のことだ。近い将来、翻訳業界ではTradosが多くの分野でデファクトスタンダードになっていくことだろう。そして翻訳者は一日に数万字を「訳す」のではなく「処理する」ことになるだろう。そして実質的な翻訳料はどんどんと下がってゆくはずだ。こうして翻訳者とは情報処理業界における末端プログラマと同列の存在となる。

 

そんなバカな、あまりに大げさすぎるなどと思っているとしたら、それはあまい。グーグルが世界中の知識をオンライン化しようとしている時代だ。歴史的な革命期である。翻訳という仕事もそれにあわせて急速かつ断続的に変化していくはずだ。そのことを受講生の皆さんは決して忘れないでほしいと思う。そして翻訳者という名の情報処理ワーカーになるのではなく、本当の翻訳者を目指してほしいと思う。

 

そのためには、逆説的なようだがコンピュータとインターネットについてはぜひ習熟していてほしい。そうすることではじめてコンピュータの素晴らしさとその限界がよくみえてくるからだ。コンピュータとインターネットはまったく驚異的な道具である。うまく使えば翻訳者の能力を何倍にもパワーアップしてくれる。ワードとグーグルをうまく使いこなすだけでも、使えない場合に比べると格段の差が出る。初歩的なプログラミングがわかっていればさらによい。新知識社会においてIT知識は財務会計知識や外国語とともに基礎的な教養となっていくはずだ。第二の読み書きソロバンである。

 

だがそのいっぽうでコンピュータやインターネットには致命的な弱点がある。心がないのである。命じられた単純な情報処理には威力を発揮するがそれ以外には何もできない。コンピュータを勉強していない人はその急速な発展に不安と脅威を感じるようだが、少し勉強するとコンピュータが人間にとって本質的な脅威ではないことが簡単にわかる。ようするにそれは人間がつくった高度な計算道具にすぎない。ただ自動車という便利な道具が人間をひき殺し環境を破壊しているように、コンピュータも使い方によっては人間に大きな危害を与えることも忘れてはならない。

 

コンピュータもインターネットも決してみずから言葉を紡ぎ出してはくれない。ただ情報を黙々と処理するだけだ。言葉を紡ぎ出すのは人間の仕事である。過去も現在も未来も、間違いなくそうである。そしていつの時代にも、そうした人間の紡ぎ出した言葉を求める人間は、必ずいる。今後、おそらく多くの翻訳ジョブはコンピュータ処理にとって代わられていることだろうが、しかしそうしたなかでも人間の手による翻訳を求めるニーズは決してなくならないはずだ。いや、ひょっとすると増えてくる。そうしたニーズ、つまり本当の人間の言葉を求めるニーズに応えることこそが翻訳者という仕事だと私は考えている。そしてこれがまたじつに面白い仕事である。そしてその面白さを皆さんにもぜひ味わってもらいたい。この講座はそのためにあるのである。

 

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