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成瀬塾通信 no.6

I am a cat.

2018.4.10

 

I am a cat. もちろん、これは夏目漱石の『我輩は猫である』の英訳のある。最近、ひさしぶりに『猫』を読みかえしてみた。すると若い頃に読んでいたときは、ほとんどなにも読めていなかったことがわかった。

 

処女作にはその作家のすべてがあるというが、『猫』もそのとおりだ。メインテーマはユーモアだが、それ以外にも知性、性愛、孤独、死そして救いへの渇望など、漱石作品のモチーフすべてがここには含まれている。『坊ちゃん』を読みかえしたときにも感じたことだが、漱石は孤独でさびしい人だったのだろうなと思う。

 

日英翻訳例を示しておく。Graem WillsonとAiko Itoという二人が訳してTuttleという出版社からでている本からの抜粋だ。まず原文、それから英語訳文を挙げておく。

 

吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。

 

I am a cat. As yet I have no name. I’ve no idea where I was born. All I remember is that I was miaowing in a dampish dark place when, for the first time, I saw a human being. This human being, I heard afterwards, was a member of the most ferocious human species; a shosei, one of those students who, in return for board and lodging, perform small chores about the house. I hear that, on occasion, this species catches, boils, and eat us. However as at that time I lacked all knowledge of such creatures, I did not feel particularly frightened.

 

私なりに英訳からの反訳をしてみる。『猫』のニセモノをつくろうというわけだ。

 

私は猫です。まだ名前はありません。生まれたところもわかりません。私が覚えているのは自分が湿気の多い暗い所でミャーミャーと鳴いていたことだけです。そのときに私ははじめて人間をみました。この人間は――あとで聞いたのですが――最も獰猛な人種である「書生」の一員でした。「書生」とは、賄い付き下宿の代償として家庭の雑役を行なう学生のことです。この種族は時折私たちを捕まえ煮て食べると聞いています。しかしながら当時の私はそうした生物のあらゆる知識に欠けていましたので、特に恐怖も感じませんでした。

 

気になるのは本物の『猫』とニセモノの『猫』とのあいだに存在する深い溝である。

 

「吾輩は猫である」と「私は猫です」。たしかに論理学でいう「命題」は一緒だ。しかし「我輩は猫である」と「私は猫です」という表現は本質的に異なる。そしてそれが本質的に異なることは、日本人なら誰でもわかることである。

 

ここからわかることは言語表現というものには「命題」以外にも重要な何かが含まれているということだ。言語学ではこの重要な何かを「モダリティ」と呼んでいる。説明を挙げておこう。

 

モダリティとは、文が指す内容に対する話し手の判断や心的態度をいう。法性や陳述ともいわれる。例えば、「きっと雨が降るだろう」という文において客観的な事柄を直接示す「雨が降る」の部分を命題といい、それに付加された話し手の推測を表す「きっと~だろう」という部分がモダリティである。(ウィキペディアより抜粋)

 

日本語は命題とともにモダリティがつねに表示されなければならない言語である。

 

「吾輩は猫である」の場合には「である」があることで話し手――我輩つまり猫――のきっぱりとした断定的な心的態度がはっきりと示されている。「である」は単なる文末ではなくモダリティの表現である。

 

そして猫が偉そうに「我輩」といいながら、みずからを猫だときっぱりと断定するそのギャップが、おかしみを生み出しているのである。

 

いっぽう、「私は猫です」では、「私」というニュートラルな表現とともに、「です」という「である」にくらべると断定的な心的態度が弱いモダリティをもっていることで、おかしみがあまり表現されていない。

 

だがいずれにしろ、日本語ではモダリティなしの表現は基本的に標準形ではない。たとえば、「雨が降る」という日本語も標準形ではない。「雨が降るよ」「雨が降るかなあ」「雨が降りそうだ」などが標準形である。

 

それに対して英語では、モダリティ表現がつねに表示されるとはかぎらない。たとえば、“I am a cat.”には、話し手の心的態度はとくに示されていない。そこに「私=猫」という命題表現はあっても、モダリティ表現はないといってよい。だからおかしくもなんともない。そしてこのおかしくもなんともない“I am a cat.”を「我輩は猫である」の「訳文」だとしているのが、上記の翻訳例というわけである。

 

どうやらこの訳者たちは、翻訳とは「命題」を移すものだと思っているようだ。だが、日本語と英語とのあいだでつなぐべきは「私=猫」だけではない。「我輩」と「である」という、それ以外の部分でもあるのだ。そしてそれがつながれていないのであれば、少なくとも『我輩は猫である』の翻訳ではない。なにか別のものだ。

 

こうした日英翻訳の例、つまり命題のみをつないでモダリティについては無視するというやり方は数多い。問題は、これが本当の意味では翻訳と呼べるものではないことに、多くの翻訳者が気づいていないことにある。いや、そもそも言語表現のなかに命題のほかにモダリティや陳述と呼ばれる部分があることを明確に自覚している翻訳者自体、それほど多くない。

 

まずは知ること、これが出発点だ。そうすれば翻訳というものをこれまでとは違う角度から、つまりより正確な角度からみることができるようになる。

 

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