日本は国際社会にいやおうなく曳きずり出されたのです。その結果としての英語学習です

まず『なぜいま人類史か』(渡辺京二、洋泉社)からの引用です。

「明治維新はまさに、伝統的社会を解体して近代工業文明をうちたてる課題を遂行した革命なんです。これは、そうしないとまず国際社会、当時の言葉でいうと万国対峙の状況下で生き残れないということがあります。伝統的社会がけっして悲惨な社会ではないこと、そのなかで日本人はむしろしあわせそうな馬鹿面をして生きていたということは、この席で前回申し上げました。当時、現状を打破すべきだと考えた志士たちは、この伝統的社会がそれ自体生きにくい社会だという実感からたちあがったわけではなくて、これではとても国際環境に対応できないということが、彼らを立たせた動機だったんです。(略)

明治維新の根本問題は、資本が完成しようとしている世界市場という場に、伝統的社会としての日本が曳きずり出されたということです。これが一切です。日本の悲劇も喜劇も、絶望も希望も一切ここから始まったのです。日本はここではじめて世界史の舞台に曳き出されたのです。世界普遍性としての西欧との対決、これは維新のアルファでありオメガです。」

現在の英語教育を考える際に、この渡辺京二の明治維新に対する捉え方は非常に参考になります。すなわち「明治維新の根本問題は、資本が完成しようとしている世界市場という場に、伝統的社会としての日本が曳きずり出されたということです。これが一切です。日本の悲劇も喜劇も、絶望も希望も一切ここから始まったのです。」という渡辺のコメントにおいて、「明治維新」のところに「英語教育改革」を入れ、「資本が完成しようとしている世界市場」のところに「英語が世界共通語になってしまったグローバルコミュニケーションの場」を入れ、「伝統的社会としての日本」のところに「日本人と日本語」を入れると、次のようになります。

「英語教育改革の根本問題は、英語が世界共通語になってしまったグローバルコミュニケーションの場に、日本人と日本語が曳きずり出されたということです。これが一切です。日本の悲劇も喜劇も、絶望も希望も一切ここから始まったのです。」

そして「そうしないと、国際社会で生き残れないということがあります。伝統的社会がけっして悲惨な社会ではないこと、そのなかで日本人はむしろしあわせそうな馬鹿面をして生きていたこと」は明らかです。そした「(英語教育の)現状を打破すべきだと考えた志士たちは、この伝統的社会がそれ自体生きにくい社会だという実感からたちあがったわけではなくて、これではとても国際環境に対応できないということが、彼らを立たせた動機」なのです。

はっきりといえば、私なんぞは、英語など好きでも何でもない。私が好きなのは日本語です。そして英語はやらなくて済むのなら、そのほうがはるかにいいに決まっています。けれども英語をやらないと、これからの世界では幸せに生きていくことができない。だからやることはやるのです。しかしそれは、みずからすすんで嬉々としてやるようなもんじゃない。ましてや必要もないのに日本語や日本文明を捨ててまで英語に傾倒するというは、頭の回転の方向性がかなりねじ曲がっていると考えざるを得ない。ところがそうした頭の回転の方向性がかなりねじ曲がっている連中が、いまの日本の英語教育界を席巻しているのも確かなのです。

渡辺のいうように、「これが一切」であり、そして「日本の悲劇も喜劇も、絶望も希望も一切ここから始まった」のです。日本は国際社会にいやおうなく曳きずり出されたのです。その結果としての英語学習です。

しかしながら「英語教育改革の根本問題」に関しては、明治維新ほどの「悲喜劇」を日本社会に生み出す必要はないと私は考えます。なぜなら250年間の鎖国が続いていた当時の日本社会とは異なり、現代の日本語はすでに半分以上は「開国」状態にあるからです。明治以降の欧化によって近代西欧語の性質をある程度獲得してしまっているのが現代日本語の特徴です。ですから、うまくすれば、現代日本語はグローバル英語との共存が可能であり、そのために不可欠な理論と方法が新しい翻訳モデルである「心の翻訳」であるというのが、私の考えです。

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