「英語の本を読む」とは、どういうことなのか

「本を読む」とは、どういうことなのか。渡辺京二は、次のように言う。

「何で本を読むのかと考えてみたこともあまりないけれど、省みれば、音楽や絵が好きという人とおなじく、文章というものが好きなのだと思う。「読む」というのは、文章を読むのだと思う。何を当たり前なというなかれ、読むのは内容じゃなくて文だといっているのだ。(略) 経験から言って、「読む」とは、その読む文のリズムが自分のからだに染みつくことだからだ。それがなければ、とても文など読めはしない。自分のからだに、同じことだが自分のこころに、ある場合には心地よい、ある場合には戦(おのの)くような反応が生じてきて、自分自身の生を一瞬照らし出し、拡張したり凝縮させたりする。一度そういうふうに文に心身を奪われた経験をもてば、生涯文の呪縛から抜けられない。(略) 読むというのは他者の生命のリズムを自分のからだに刻印されることなのだ。だからそこには受容と同時に拒否も生じ、自分の魂のなかを他人の魂が通過して行った痕跡、つまり抗体のごときものが形成され、多かれ少なかれ、その後の生はその抗体の働きに左右される。」(『渡辺京二コレクション[2]民衆論――民衆という現像』渡辺京二、ちくま学芸文庫、p.465-7)

たしかに、そのとおりだと思う。だが、もしそうだとすれば、私たち日本人英語学習者が「英語を読む」とは、一体どういうことなのか。

私たちにとって英語を読むことは本当に「その読む文のリズムが自分のからだに染みつくこと」なのだろうか。本当に「他者の生命のリズムを自分のからだに刻印されること」なのだろうか。「一度そういうふうに文に心身を奪われた経験をもてば、生涯文の呪縛から抜けられない」といった決定的な事態が私たちの心と体に本当に生じているのだろうか。

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