(サイマル・アカデミープロ翻訳者養成講座の2009.2.24付けの資料から抜粋)

人は一生成長する

 

 サイマル・アカデミーのプロ翻訳者養成講座の講師になるまで、私は年をとることは人間の可能性をすり減していくものだと思っていた。だから30代や40代になってから新しいキャリア、それもプロ翻訳者という専門職を目指そうというのは、その人が単に無知なのか、あるいは翻訳という仕事を舐めているかのどちらかだとしか思えなかった。

 そのため開講当初は、受講生の眼を覚まさせて「まっとう」な人生を歩んでもらうようにすることが講師としての務めだと考えていた。「本当にプロ翻訳者になりたい人は、こうした講座にはきません。ここにきている時点で、皆さんはプロ翻訳者になることは難しいと思います」などと、授業中によくいっていたものである。

 授業でも、翻訳を教えることはほとんどしなかった。翻訳技法は人から教えられるものではなく自分で見つけ出すものであり、まわりが何かいうと逆に自分自身を失わせることにつながりかねないと考えていたからである。

 だが、これは受講生側からみれば、ここにきているようでは翻訳者になれないと面と向かっていわれ、さらには授業でほとんど何も教えてもらえないということだから、まあ詐欺みたいなものである。

 ところが、そうした授業をしていたにもかかわらず(あるいは、そうした授業をしていたからこそなのかもしれないが、そこのところがよくわからない)、この講座からは数多くのプロ翻訳者が育っている。そのうちの何人かは、40をすぎてから翻訳の勉強をはじめた人たちである。人生のなかばに達してはじめて翻訳というものにふれ、そこからプロの道へと進みはじめたのだ。翻訳は演劇や音楽と同様に一種のアートであるから、翻訳者とは「見い出す」ものであって「育てる」ものではないと信じていた私にとって、これはまさしく想像外の出来事だった。

 そうした経験を積み重ねるうちに、私の翻訳者養成に対する考え方、もっとおおげさにいえば人間の成長というものに対する見方が根底から変わっていった。年をとることは決して人間の可能性をすり減していくものではなく、やり方次第では人は何歳からでも伸び、そして一生成長しつづけることができる――そう本気で思いはじめたのである。

 開講から7年近くがたって、その思いはますます強くなってきた。毎期さまざまな人が当講座にやってくるが、年齢や職業や経歴にかかわらず、みんな伸びる。伸びる程度は千差万別だが、ひとつだけ確実なことは、誰もが必ず伸びるということである。

 当講座はプロ翻訳者の養成講座であるから、受講生は翻訳のプロになることを目指してここにやってくる。しかし実際にプロ翻訳者になることはそれほど簡単なことではない。私はよく「桃栗三年、柿八年、翻訳者十年」というのだが、これはべつに誇張していっているのではない。すべからく、プロというものはそういうものなのだ。大工だってコックだって会計士だって医者だって、みな同じことである。

 だがそれでも受講生の皆さんにいいたいのは、事情の許すかぎり勉強をぜひ続けていただきたいということである。誰もが簡単にプロ翻訳者になれるわけではない。しかし勉強を続けることで間違いなく得るものがある。それはみずからが成長しつづけているという確かな実感である。年をとろうが、いまの生活がどうであろうが、人間は努力をするかぎり、いつまでも成長しつづけることができるのである。そしてそのことが実感できることは、社会的キャリアを得ること以上に人生にとって大切なことではないだろうか。

​☆☆☆

間違いはノンティブの特権です

 「運命なら運命で、いいじゃないか。どうせ変えられないのなら、気が楽だ。私はあらゆる義務から解放された。何をやってもいいのだ。私はいつもここにいる。変わらぬ自分と出会っている」

 それは、あきらめることによって、絶望という客観性の重さに肩すかしをくらわせてしまうようである。あきらめという思いがけない行動で霧散してしまった客観性は重みを失う。

 そのとき、主観性は運命の中に浸透しはじめる。

(略)

 私は運命の中に浸透しはじめ、運命を自由に動かしはじめる。

(『人は変われる』、高橋和巳、ちくま文庫より抜粋)

 

 私たちの英語学習でなによりも大事なことは、英語の間違いに対する「解釈」のひっくり返しです。

  私たちは英語のノンネイティブです。ノンネイティブは間違いを犯します。これは必然であり、いわば私たちの「運命」です。運命は変えられません。つまり、いくら勉強をしようとも間違いがゼロになることなどないのです。

  問題は、これをどう「解釈」するかです。英語ネイティブに間違いを指摘されるとき、私たちは恥ずかしさを感じたり、失望や(ちょっとおおげさですが)絶望を感じたりします。そしてほとんどの人がそう感じるのは仕方がないことだと思っています。

  違います。これこそが私たちの成長を阻害している「古い解釈」です。このようなネガティブなマインドセットを持っているかぎり、私たちは英語学習を通じて豊かな人生を得ることもできなければ、幸せになることもできません。

  私たちは、まずこの「古い解釈」を捨てなければなりません。そして私たちを豊かな人生と幸せへと導く「新しい解釈」を獲得していかなければなりません。

  ではその「新しい解釈」とは、どのようなものでしょうか。それは「私たち英語ノンネイティブは英語において間違ってもよいという”自由”と”権利”を持っている。」という解釈です。

  英語で間違いを犯すことは私たち英語ノンネイティブの運命です。運命なら運命で、いいではありませんか。どうせ変えられないのです。あきらめればよいのです。そしてそれが運命であるがゆえに私たちは英語としての義務から解放されたのです。すなわち私たち英語ノンネイティブは英語において間違ってもよいという自由と権利を持っているのです。この自由と権利を英語ネイティブは持っていません。私たち英語ノンネイティブだけの特権です。

  もちろん間違いは、ないに越したことはありません。そのために学習を積み重ねることはよいことです。しかし忘れてはいけないのは、それは私たちの自由意思によって行われるべきものだということです。誰かから課せられた義務や責任などではありません。

  間違いを犯してもよいことを自らの特権だと理解しつつ、そのうえで間違いを減らすために学習を積み重ねていくことです。そうすることによって私たちはみずからの運命を自由に動かしはじめることができます。

​☆☆☆

 

英語の「グローバル基準」について

 いま私たちはほぼすべてのグローバルコミュニケーションを「英語」でおこなっています。旅行でも学問でもビジネスでも世界の共通語は「第二言語としてのグ

ローバル英語」です。この事実を否定することはできません。

 問題は、世界の共通語であるグローバル英語の規準を決めているのが「ネイティブ英語」の使い手たちであるということです。

  現在の世界の人口は78億5000万人。そのうちネイティブ英語の使い手は4億人ほど。4割る78.5は約0.05。つまり、現在の世界では5%の「ネイティブ英語」の使い手が、残りの95%の「第二言語としてのグローバル英語」の使い手のグローバルコミュニケーションの規準を決めているのです。これは誰がどう考えてもおかしなことです。おかしなことは変えなければなりません。

  ではそのために何をするべきでしょうか。それは95%のグローバル英語の使い手がみずからの手でグローバル英語の規準を決めることです。成瀬塾は、その実践の場です。

 成瀬塾では「こころの翻訳」モデルを用いて日本語の世界とグローバル英語の世界とをつないでいきます。モデルのプロセスの最後のほうに「グローバル英語ファイナル」という工程がありますが、これが私の考えたグローバル英語の規準設定です。ここまで到達ができればグローバル英語の使い手として十分だということです。

  そしてその後に「ネイティブ英語」の習得にまで進んでいきたい場合には次の「ネイティブ英語との比較分析」という工程に進みます。ただ私の目標はあくまでもグローバル英語における規準の確立です。成瀬塾では英語の「グローバル規準」について具体的なかたちでご紹介をしていきます。

​☆☆☆

英文ライティング指導の体系/手法

 日本人の英語学習をお手伝いする一人のコーチとして私が感じるのは、皆さんが持っている成長の潜在力の大きさと確かさです。私たちはみな一般に考えられているよりもはるかに高い水準にまで成長できるのだという確信に、私は到りました。ただし、きちんとした環境さえ整えば、です。生き物はすべてそうなのですが、すくすくと伸びるためには環境がとても大事です。

 成瀬塾では、皆さんの英語ライティング能力を伸ばすための環境を整えることで、ひとりひとりの成長を促します。そのために必要なのがコーチであり、コーチング体系/手法です。とくに日本人の英文ライティング学習の場合、適切なコーチと適切なコーチング体系/手法が存在しなければせっかくのトレーニングが確かな成長へとつながりません。

 残念ながら従来の日本の英語教育には英文ライティングにおける適切なコーチとコーチング体系/手法がほぼ存在しません。ゆえに私たち日本人は英語がうまく書けません。(すでに述べたように)私たちには英語がうまく書けるようになる潜在力があります。その潜在力を引き出す環境がないのです。成瀬塾がその環境になります。

​☆☆☆

 二分性(dichotomy)

 「外国にいるころ、よく口ぐせのように言ったことがある。それはこうだ。西洋の人々は、物が二つ(ダイコトミイ)に別れてからの世界に腰をすえて、それから物事を考える。東洋は大体これに反して、物のまだ二分しないところから、考えはじめる。こうしてお互いに生きていて話し合い、おつきあいする点では、たいして気もつけずにすんでいるが、少し何かの点で、ひょっと変だなと思うことがあるとき、その原因をつきとめんと歩を進めると、つまりは、西は二分性の考え方、感じ方のところに立脚していることがわかる。

(略)

 分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知ると知られるもの―ーこの二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展していく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

(『東洋的な見方』、鈴木大拙、角川ソフィア文庫、より)

 ほとんどの英語学習者にとって「二分性」(dichotomy)という言葉はまったく耳慣れないものだと思います。従来の英語教育においてこの概念が取り上げられることはありません。みんなが知らないのは当然です。

  しかしこの「二分性」という概念の深い理解と広い活用力の獲得こそが日本人の英語学習の最大の山場であると私は確信しています。ここが乗り越えられないから日本人は本当の意味で英語ができるようにならないのです。たとえ表面上は英語ができるようになったとしても、それはたんに英語の世界の上っ面をなめているにすぎません。「二分性」が理解できないかぎり彼らの思考(心)の原点が理解できず、それが活用できないかぎり彼らとの深い心の交流はできないからです

  上に紹介した鈴木大拙の言葉のなかで語られている「西洋の人々は、物が二つ(ダイコトミイ)に別れてからの世界に腰をすえて、それから物事を考える。東洋は大体これに反して、物のまだ二分しないところから、考えはじめる。」というコメントこそが、キモです。

  みなさんは、学問でもビジネスでも他の分野でもよいですが、欧米的な考え方に接したとき「なるほど、じつにすっきりとした説得力のある考え方ではある。しかし、深い部分でなにか納得しがたい部分もある。この世界は、彼らが語るほどすっきりと割り切れるものではないはずだ」などと思ったことがありませんか。私にはそうした経験がいくどもあります。「この世界は、かんたんには割り切れない」という感覚こそ「物のまだ二分しないところから、考えはじめる」という東洋的発想の所産です。西欧的な発想では「物のまだ二分しないところ」は考えないのです。あるいは、考えられないのです。

  西と東のどちらの発想(世界観)がよい、悪い、というのではありません。2つの発想(世界観)は相互補完的です。2つがお互いを補い合ってこそ新たな人類の世界文化が生まれるのだと鈴木大拙は強調しています。大拙は次のように述べています。「二分性が全部よいとか悪いとかいうのでは、もちろんない。東洋としては二分性の徹底を学ばなくてはならぬ。これを顧みないで、東洋主義とか愛国心とか何とかいうもので騒ぎ立つべきでないことは、いまさら言うまでもない。」

  私たちは西欧的な「二分性」の世界を深く学ばなければなりません。そして習得していかなければなりません。それが英語を学ぶことの第一の意義だと私は思います。

 

☆☆☆

センテンスづくり「感覚」

 前回紹介した「二分性」は英語における「認識」の基盤です。それに対して、ここで紹介するセンテンスづくりの「感覚」は英語における「表現」の基盤です。このセンテンスづくりの「感覚」を深く理解して広く活用できるようになることが私たちの英語学習の大きな目標の1つです。

 英語のセンテンスはSubject(S)、Predicate(P)、Modifier(M)、Connector(C)という4つの要素から構成されています。なおPredicateの下部要素としてpredicative)Verb、Object、Complementがあり、ModifierにはAdjectivalとAdverbialの2種類があります。

 これがセンテンス要素のすべてです。それ以外にはありません。ということは英語のセンテンスづくりとは、この4つの要素を適確に並べていくことであり、それに尽きます。

 その際、作り手の心がどのように動いているのかを把握しておくことが私たち日本人英語学習にとってなによりも重要です。なぜならそうした「英語の心」を理解して自分でも運用できるようになれば、私たちは英語を英語として理解できるようになり、また自分たちでも英語を英語としてつくれるようになるからです。

 ではセンテンスをつくる際に具体的に「英語の心」はどのように動いているのでしょうか。

 ここでは「動名詞」を用いるセンテンスを一例として取り上げてみましょう。「動名詞」というのは名詞=Subject, Object, Complementとして用いられる動詞由来の表現のことです。下に例文を挙げます。『和文英訳の修行』(佐々木高政)の文例からです。

 

I cannot stand being laughed at.

 

 このセンテンスのSubjectは、Iです。次にくる可能性がきわめて高いのはPredicative verbです。そこで英語の心で次を待っているとcannot standがきます。これはPredicative verbです。

 では次に何がくるのでしょうか。このとき「英語の心」は2つの選択肢を持ちます。Objectがくるか、こないか、です。Objectがこなければstandは自動詞用法ですからI cannot stand.(私は立てない)になります。この可能性はありますが、それよりも可能性が大きいのはObjectがくる方です。なぜならそれが英語の世界(二分性)の基本形だからです。

 Object(=名詞)表現としては様々なものが考えられます。語(I cannot stand the noise.)、代名詞(I cannot stand it.)、名詞節(I cannot stand that he was made into a hero.)などにくわえて考えられるのが、動名詞(句)です。実際、このようにさまざまな表現の可能性を心に持ちながら次を待ちかまえていると、ここできたのはbeing laughed atという動名詞句でした。これがObjectです。これでI cannot stand being laughed at.となりました。意味は「馬鹿にされることは我慢ならない」です。

 こんなふうに、次に何がくるのかの選択肢をいくつも心に用意しつつ、次の要素(ここではObject)を理解していくこと。これが英語センテンスの「心の動的理解」の基本形です。

 自分でセンテンスをつくるときも心は動きは同じです。まずSubjectをつくり、それからPredicateのPredicative Verbを決め、そして必要であればObject・Complemenを決めます。それぞれに表現はさまざまです。このS+P(VO/VC)の心の働きを基本をしつつ、実際のセンテンスづくりではその周りにさまざまなModifier(形容詞/名詞、これも語・句・節といった様々な表現選択肢がある)を加えていきます。

  こうした一連の心の働きのプロセスこそが英語センテンスづくり「感覚」なのです。そしてつねに無意識レベルでストレスなくこの感覚を活用できるようになることが、私たちが英語を英語としてマスターするための必須条件です。

 英語センテンスづくり「感覚」を身につけるためになによりも必要なのは練習です。Practice makes perfect.です。ところがこれまでの英語教育では、英語センテンスづくり感覚を磨くための練習機会がほとんどありませんでした。そのためほとんどの英語学習者が「英語の心」に手が届かず、英語を英語として読めず、英語を英語として書けないままでいます。この不毛な状況は変えなければなりません。成瀬塾では学習者の英語センテンスづくり「感覚」を習得してもらうべく、実践的で効率的なプラクティスの場を提供します。